佐土の構居

兵庫県姫路市別所町佐土

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国道2号線で御着城を過ぎてすぐ「御着交差点」を南へ入り、山陽道の街道を東へ歩くと佐土の構居(さづち)があります。

昔の姿をかすかに残す街道、「歩く街道探索シリーズ」も満載。 と言えるぐらいのシリーズにしたいよ。
  
  
ここは福乗寺、昔は境内と北と東の民家を含んで四角に掘がめぐらされていました。

今では門前にわずかに溝の跡が残っているような感じで、すぐ西の御着城の掘とつながっていたらしい。
 
  
「御着宿 本陣」

足利尊氏の側近・高師直が出雲守護である塩冶判官高貞の妻・顔世御前に恋をし、理不尽な罪で塩冶判官は京都を追われました。

塩冶判官は山陽道を、顔世御前は山陰道を出雲へ逃げ、妻は播磨蔭山(姫路市豊富町)へ落ち延び、塩冶判官は御着の宿から道を変えて夢前町を抜けて出雲へ走りました。

妻は蔭山の円通寺にて自害、それを聞いた判官も出雲で自刃するのです。
   

   
この地から南の市川沿いにある妻鹿城の妻鹿孫次郎貞祐から八代後・清水勝久が佐土の領主といわれ、吉春の代から清水と名乗りました。

また、嘉吉の頃には播磨国蔭山(豊富町)の城主になったとも伝わっています。

佐突の馬屋の話

平安時代の「続日本書記」には播磨印南郡の「佐突の駅家」がありました。 播磨には九駅(明石・邑美・賀古・佐突・草上・大市・布勢・高田・野摩)あり、その一つが佐土にありました。

でも貞観十年(868)の山崎断層による「播磨国大地震」で崩壊し、その後は再開されませんでした。

街道筋を少し東へ行った所の北宿には「六騎塚」があり、その辺りには北宿遺跡があって、そこが駅家とも伝わっています。 よく分からなかったけど。

御着宿の話

街道を少し西へ歩くと御着城の街、その街道筋の公民館の前に本陣跡の標柱があります。

大名が宿泊する部屋は「鶴の間」「亀の間」と呼ばれ、萩藩の大名・毛利氏も泊まりました。

『参考文献を参照』
 

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