坂越浦城

兵庫県赤穂市坂越上の山

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新幹線相生駅手前を南に曲がって、突き当たりの相生港から250号線を赤穂方面(西)へ走ります。

高取峠を越え「旧坂越橋東交差点」を東へ入ると坂越の街並みです。 北側の宝珠山の麓には坂越浦城(さこしうら)があります。
    
    
大避神社の西側の丘にあります。

江戸時代は、展望台の前の小高い場所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていました。
 
  
街並みの道から北側の細い路地に入ると、沢山の石垣があります。 しかし畑の土留めとして新しく築かれたところもあって、昔のか新しいのかはよくわからないです。

この辺りは、歩いているうちにいつの間にやら畑、と思って歩いてみると家の裏路、と思うと山に入っていく道。 と迷路みたいです。
    
    
「小倉御前の墓」

この五輪塔は、南北朝時代の後亀山天皇の皇子、小倉宮の墓といわれています。

京都嵯峨の小倉山に住み、人々に慕われていましたが、将軍家の争いのため坂越に逃れて隠れ住んだそうです。

争いに負けたことを知った小倉宮は坂越浦に身を投げて亡くなったと伝えられています。 
   
   
児島高徳の墓」

建武2年(1335)、赤松円心が足利方(北朝)について南朝と対抗した時、円心の白旗城が新田義貞軍に囲まれました。

新田軍と共に児島高徳も熊山(岡山県赤磐郡)に兵を挙げ、三石城を攻撃したのです。
   
   
「妙見寺」

児島高徳は負傷し、一族と東へ退却する途中、この妙見寺に入り傷を治し、その後は僧となって、坂越で生涯を終えたといわれています。

この妙見寺は天平勝宝(749〜757)頃に行基(ぎょうき)によって創建され、のち空海によって再興されました。

山の斜面に持たれるように造られた懸造り(かけづくり)は全国的にも例が少なく、蟇股(かえるまた)には十二支が彫り込まれています。 
   
   
 「生島」

古来より大避神社の神地として人の入ることを禁じています。

生島によってこの港が荒波から守られ、人々は生島を神として祀り、豊かな海の恵みに感謝してきました。 島には秦河勝の墓と伝えられる古墳があります。

秦氏は秦の始皇帝の子孫・弓月君の渡来が始まりといわれています。 聖徳太子四天王のひとりで、太子の死後の皇極二年(643年)蘇我入鹿の乱を避けるため、難波から船で坂越の生島まで逃れ来たと伝わっています。
   
   
「大避神社(おおざけ)

延喜式以前の創建といわれ、秦河勝、天照皇大神、春日大神を祀っています。

拝殿両翼の絵馬堂には、40数枚におよぶ大小の絵馬が掲げられ、中には明和年間のものあり、船絵馬としては日本で最も古いものだといわれています。

毎年10月第2日曜日に行われる例祭(坂越船まつり)は、瀬戸内三大船まつりの一つに数えられています。  
   
   
慶長6年(1601)に創業された酒屋さんもあります。 清酒「忠臣蔵」も有名だそうです。

向こうから、昔、出会った人達がワイワイと言いながら歩いて来そうです。

誰かは、かってに違う道に入って、遅れては走ってきたり、店ではみんなで部屋中を見つめ回してから何やらおいしそうな物を食べたり。

一人じゃ、できないよね。
   
    
生島が見えなくなるまで海岸道を東へ歩いてみました。

尼子山城の後で、坂越に来ました。 ここには茶臼山城もあるけど登らなかったよ。 一緒にワイワイ言いながら街を見たいし、その時に行くよ。

坂越の街、訳のわからない話ができる人たちと逢えるかな。
「さびしいから、一緒に行こう」と素直になればいいのにね。

桟橋に一羽の鳥が飛んでるよ。 
   

   
嘉吉元年(1441)、播磨では赤松満祐が将軍足利義教を殺した「嘉吉の乱」で、赤松一族は滅亡しています。

その後、但馬の山名宗全が播磨を支配し、享徳年間(1452〜55)に坂越浦城を築いたといわれています。

長禄三年(1459)、南朝の残党が朝廷に忍び込み神器を盗み出すという事件が起こりました。

赤松氏の旧臣・石見雅助、間島雅元、中村太郎四郎らは吉野の朝廷を襲い、神器を取り返しこれを北朝方に献じた功績により、赤松氏は復興するのです。

その頃、中央では、室町幕府の八代将軍・足利義政に後継ぎがいなかったため、弟・義視を後継者として養子にしました。

しかし日野富子が義尚(よしひさ)を産むと、富子と義視は対立するのです。

この争いが発端となって三管領・細川勝元(東軍)と四職・山名宗全(西軍)が大乱を起こしたのが応仁の乱(1467)で、東軍には斯波義敏、畠山政長、京極持清、富樫政親、武田国信そして赤松政則がつきました。

当時の政則は北陸加賀(石川県)の守護で、この乱を足がかりに兵庫の播磨・岡山の備前、美作を回復し置塩城を本拠にしました。

この政則には、子・義村と村秀がいました。 二代目城主・義村は家臣の浦上村宗の計略で、この坂越から東にある室津城に幽閉され殺害されるのです。

もう一人の子・村秀は五歳の時に龍野城主になりました。

村秀は祖父・則貞と対立し、則貞が塩屋城から那波城(相生市)に移って那波港を支配することに対抗して、ここ坂越港に砦を築いたのが赤松氏時代の坂越浦城なのです。

『参考文献を参照』

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