笹倉城

兵庫県加西市笹倉

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加西の「法華口交差点」から716号線を北へ走ります。

フラワーセンターを過ぎて「玉野交差点」から24号線を少し北へ、西側に見える標高120mの山が笹倉城(ささくら)です。
    
   
別名を殿原城といいます。

殿原町は、お城がある笹倉町の北側の町名、当時ここは南殿原と言ってたんだね。

城主の子孫といわれる長浜家宅の背後にある城山です。
 
  
「稲荷神社」

長浜さんのお宅の入り口には、加西市定文化財「長浜家古庭園」の案内があります。

お家の庭の奥は一段高くなり、上の神社の奥には小山を一周するように土塁が造られています。
    
   
鳥居の横にある穴、最初は井戸かなと思ったけど、抜け穴と云われています。

お城の真ん中から、ここにつながっているらしいよ。 
   
   
今まで堀切と言っていた様な形状の所、塀が造られています。

三木城落城、その後。

則賢の子・則知は滋賀県長浜に身を隠し、その子・平左衛門が加西に帰り、姓を長浜と称されています。
 
  
「赤松政則の墓」

笹倉町から西へ、北条町を越えて福居町の長円寺にあります。

嘉吉の乱で滅亡した赤松一族、そして赤松政則によって再興され、置塩城を築城しました。

加西に狩に出かけ、病いになり、このお寺にかつぎこまれました。
   

    
室町幕府の初め、足利尊氏と弟・直義は二頭立ての政治を行っていたのですが、尊氏の執事・高師直と直義の争いから、尊氏と直義の仲が悪くなりました。 (観応の擾乱)

観応二年(1352)、直義は細川顕氏、石塔頼房、桃井直常らと、尊氏追討の兵を挙げて京都へ攻め入ると、尊氏・義詮は京都を捨て姫路書写山の坂本に退きました。

直義方の石塔頼房が加東郡の光明寺に陣を構えると、尊氏軍と光明寺で合戦となるのです。

この時、揖保郡の黒崎山城主・赤松朝範は尊氏方に味方し、その恩賞により東播磨八郡を受けました。

そして姓を在田氏と名乗り、加西に築いたのが笹倉城です。

文和四年(1355)、但馬の山名時氏が播磨に攻め入ると、在田朝範は敵の大将と刺し違えるために討って出るのですが、逆に山名兵により首を刺されました。

山名兵は朝範が死んだものと思い、その場に置き去りにすると、朝範は息をふきかえして笹倉城に帰るのです。

その後、二代目城主・則康は早くして世を去ると、赤松祐利が城を継いで笹倉氏を名乗り、則実・則氏・則秀・則賢と続きました。

天正六年(1578)、秀吉の三木城攻めの時、別所方の笹倉則賢は籠城して、三木城落城で自刃しています。

『参考文献を参照』

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