兵庫県佐用郡佐用町佐用 | |
|
|
Top 兵庫県のお城一覧 | |
中国自動車道、「佐用IC」から373号線を少し南へ、JR佐用駅の北側には佐用構(さよう)があります。 2005年10月、今は秋。 まさか五月の夜の話、それが佐用の由来なんだね。 |
|
「赤松四天王」といえば、宇野氏・小寺氏・別所氏と佐用氏だよ。 少しの間、来なかったけど、三日月町・南光町・上月町は合併して佐用町になってた。 今では学校があるところ、南側は当時の崖かな。 |
|
「佐用都比売神社(さよつひめ)」 佐用構から東の240号線を少し北に行ったところだよ。 ここも播磨風土記、出雲の伊和大神が播磨国をめざした時、妹の玉津日女命と佐用の土地をめぐって競ったんだね。 この玉津日女命は伊和大神の妻という話もあるよ。 |
|
「鹿庭山」 佐用構の北側の山、朝霧で有名だよ。 霧の中に消えるボール、浜風に乗って消えてほしいな。 五月の夜、玉津日女命は大撫山(鹿庭山)で鹿を行け捕り、お腹を割いて、その血に籾をひたしました。 そうすると、一夜で苗が育つのです。 |
|
「大撫山(おおなでやま)」 西はりま天文台がある山だよ。 これを見た伊和大神は 「あなたはすばらしい、苗を五月夜に植えなされた」と呪術の力に驚き敗れて、この地を去っていくのです。 この玉津日女命が名を変え、佐用都比売神として祀られました。 五月夜が「さつきよ」、讃容(さよ)の郡となり佐用なんだね。 |
|
|
|
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は二度の鎌倉幕府倒幕に失敗、笠置山に籠もるも捕らえられ、隠岐へ流されました。 のち天皇は隠岐を脱出し、鳥取県の船上山から、京都をうかがっていました。 これに対し、幕府は畿内の動乱を鎮めるために、足利尊氏と名越高家を派遣しています。 この時、赤松氏の一族である佐用範家は「淀の久我畷の合戦」で名越高家を討ち取りました。 その範家が築いたのが佐用構で、その後は同じ佐用の福原城を築き移りました。 『参考文献を参照』 |
|
|
|
Home Top 兵庫県のお城一覧 | |