兵庫県姫路市書写 | |
|
|
Top 兵庫県のお城一覧 | |
県道67号線を書写山目指して走ります。 2005年11月の最後、紅葉の日。 書写山の山頂には白山城(しろやま)があります。 |
|
「白山権現」 性空上人によって開かれた書写山圓教寺、西の比叡山とも呼ばれています。 秀吉は書写山に入り、白山城を本拠として三木城や上月城などの播磨攻めをするんだよ。 |
|
「摩尼殿」 天録元年(970)、この地で桜の木に天人が舞い降り、「生木如意論・・」と礼拝しているのを見て、性空上人が生木に如意輪観世音を刻まれたのが本尊となりました。 その本尊を安置する本堂をその上に築いたので、岩山によりかかった造りになっているんだね。 |
|
「十妙院」 「嘉吉の乱」でよく出てくる赤松満祐、その子女が十六歳で世を去り、冥福を祈るために建てたと云われています。 天正七年(1579)、正親町天皇から「岡松院」の勅号を賜り、のち「十妙院」となりました。 |
|
「護法石(弁慶のお手玉石)」 石の上に乙天と若天の二人が降り立ち、寺門を守ったと云われています。 また弁慶は、お手玉にしたとも云われているよ。 「安宅の関」の富樫左衛門、よかったなぁ。 |
|
「姫路城主・本多家の廟屋」 元和三年(1617)、池田氏の後、姫路城に入った本多忠政は摩尼殿・講堂・金剛堂を修復しています。 ここには忠政、政朝、政長、忠国や宮本三木之助など切腹旬死者の墓碑が祀られているよ。 三木之助は宮本武蔵の弟子と、麓の坂本城で書いてるね。 |
|
「姫路城主・松平直基の墓所」 慶安元年(1648)、家康の孫・直基は出羽国の山形城から姫路城に入りました。 でも途中の江戸にて病気で世を去り、子・直矩がこの地に墓所を建てたのです。 |
|
「姫路城主・榊原家の墓所」 慶安二年(1649)、松平氏の後に白河から榊原忠次が入りました。 27歳で世を去った忠次の子・政房、同じく28歳で亡くなった政祐のお墓があります。 それぞれの父・忠政と政邦のお墓は有明山城の増位山にあるんだよ。 |
|
「和泉式部の歌塚」 和泉式部が性空上人に会うため、書写に訪れた時、居留守を使われました。 その時の歌。 「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」 弟子から聞いた上人は、急いで一行を呼び戻したのです。 明石の魚住城から気になっていた碑だよ。 |
|
「大講堂」 寛和二年(968)、花山法皇の勅願により創建された本堂、お経の講義など学問や修行の場です。 食堂・常行堂とともにコの字型に建てられ、「三つの堂」と云われています。 ここで携帯鳴ったら、煙モクモクで消滅かなと書きたいけど、今回はやめておく。 |
|
「開山堂(奥の院)」 寛弘四年(1007)、性空上人の没年、高弟延照が上人を祀るために建てました。 お堂には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められています。 屋根を支える左甚五郎の作も忘れないようにね。 |
|
今年の色は少しベージュ、若者たちは「きれい」と携帯画面に映す。 沢山の秋をすごしてきた、今頃「きれいな色」と感じている。 舞い落ちる瞬間まで「きれい」と映す若者たち。 去年の秋は有馬の落葉山城、重なる落ち葉は待人便り。 今年の落ち葉、「冬仕度」しか映せない、そんな秋なのかな。 |
|
|
|
天正六年(1458)、加古川城には多くの播磨の諸将が召集され、秀吉による毛利攻めの軍議が開かれました。 この時から、三木城主・別所長治は織田氏に叛旗を翻し、秀吉の軍勢はその三木城を攻めました。 秀吉軍が大村坂で陣を構えていた時、別所方は密かに加古川を下り、高砂城主・梶原景行、野口城主・長井四郎左衛門、神吉城主・神吉頼定、志方城主・櫛橋伊則らに援軍を頼みました。 そして別所勢は秀吉陣営に夜襲をかけると、秀吉勢は思いもかけない奇襲に敗退するのです。 秀吉は加古川から姫路に退却し、書写山に陣を構えたのが白山城、十地坊にて軍議を開いた結果、「三木城の兵糧攻め」が始まるのです。 『参考文献を参照』 |
|
|
|
Home Top 兵庫県のお城一覧 |