兵庫県南あわじ市志知松本 | |
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「神戸淡路鳴門自動車道」で明石大橋を渡り、そのまま自動車道を南へ、「西淡三原IC」から31号線を南へ走ります。 「志知交差点」から見て南南東の方向に志知城(しち)があります。 |
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やっと見つかりました、こんなに探したのも久しぶり。 大きな円をグルグル歩いて、少しづつ中心に近づいたんだ。 淡路島も南に近い、ここは「淡路十人衆」野口氏のお城。 グルグル回って探した城跡、長曾我部氏の名前も初登場、四つの国も回ってみたいよね。 |
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「伊勢神社」 天正四年(1576)、志知城主・野口長宗が本殿を建立し、また加藤嘉明は「文禄の役」で出陣の時に戦勝を祈った神社だそうです。 西側の31号線から歩いて北へ、東へ、南へ。 この神社にやってきました。 最初はここが城跡だと感激したよ、でも違うみたい。 更に南へ、西へ。 |
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鉄塔がポイントと記憶にあったので、その方向へ歩くと堀を発見。 ということは右側が城跡、でもどこから入るのかな。 このまま進めば元の位置、反対に回って神社まで戻ったよ。 話は違うけど、四国一周は何泊必要かな。 意外と考えては正解が出てこないよ。 何泊やろ。 |
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神社から真っ直ぐに西へ進めば鳥居がある。(一番上の写真) よく見る小さな橋が架かっていいたよ。 もっと写真をよく見たら小さな鳥居が立っている。 落ちそうな時、竹につかまりぐるっと回れるから大丈夫。 そんなこと考えている間に目の前は城の中心、入り口を探そう。 |
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「もう一周」 と思って歩いていたら、また鉄塔の方に出てしまった。 いったいどこから入るのかな。 黒田官兵衛も歩いていた志知城、四国一周もがんばるよ。 さあ「玉ねぎ」食べて、元気出してもう一周、入り口を探そう。 玉ねぎは店で買ってね。 |
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志知城は鎌倉時代の初め、管道忠が築いたのが最初と伝わっています。 管氏は鎌倉幕府に従い、真豊・豊延・延真と続き淡路水軍として活躍しました。 南北朝時代、足利尊氏の命によって細川師氏が淡路を攻めた時、管実正も細川軍に属していました。 のち忠重・実之・光忠・忠行・行則と代々足利幕府に従い京へ出仕しています。 室町時代には淡路の養宜館を本拠とした守護・細川氏に属し、管実邦の時に野口氏と名乗りました。 室町の末期、洲本城・由良城・白巣城などを居城とした安宅氏が淡路で勢力を拡大し、野口氏も「淡路十人衆」として名を連ねて、安宅氏とともに阿波・三好氏に従い、今度は阿波に渡って細川軍と戦うのです。 この頃の阿波は、細川氏と三好氏が激しく争い、細川真之が土佐の長曾我部元親に援軍を要請すると、三好方は織田信長に援助を求めました。 天正九年(1581)、土佐国から長曾我部軍が阿波に侵入した時、野口長宗も郡家城主・田村康広と共に三好存保(まさやす、十河氏:そごう)に味方して戦っています。 しかしその年、秀吉の淡路攻めが始まり、岩屋城や由良城が落ちると、この志知城も開城し、野口長宗が阿波に移ると黒田官兵衛が志知城に入り長曾我部軍に備えました。 天正十三年(1585)、秀吉は洲本城に脇坂安治、志知城には加藤嘉明を置き、そして四国征伐が始まるのです。 のち嘉明が伊予正木に移り、秀吉の代官である三宅・石川氏が志知城から少し西に叶堂城を築き、この志知城は廃城となりました。 『参考文献を参照』 |
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