洲本城

兵庫県洲本市小路谷・山手

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神戸淡路鳴門自動車道、「洲本IC」から国道28号線を東へ5kmほどで洲本の街に入ります。

大坂湾に面した76号線を少し南に行くと、標高133m三熊山の山頂には洲本城(すもと)があります。

車でも登れますが、「三熊山登山口」から歩いていく方が楽しいよ。
    
    
「三層の模擬天守」

昭和3年に三層の模擬天守が造られました。 模擬天守としては日本で最も古いものだそうです。
  
  
安宅氏の後、管氏が入りました。 その天正十年六月に「本能寺の変」が起こるのです。

のち秀吉は淡路を征伐し、四国の長曽我部氏の備えとして仙石秀久を置きました。

びっくりしました。 大きくても、山でひっそりと時だけを過ごしている石垣と同じ雰囲気を持っているのです。
    
   
「武者屯(だまり)の石垣」

天正十三年には、脇坂安治に守らせました。 秀吉の九州攻めや小田原の北条氏征伐には、脇坂氏・九鬼氏・長曽我部氏・欲利氏も参戦しています。

屯の読みには「たむろ」とあります。 たぶん沢山の武者がたむろしていた所の意味だと思います。 
   
   
「7000万年前の岩石」

この岩石は、東西300km、厚さ1万mの和泉層郡の地層です。

200億年前に宇宙は大爆発し、50億年前に太陽ができました。

そして46億年前に地球が誕生し、1万年前に日本列島ができ、7000万年前には恐竜が突然絶滅、6500万年前に人類が誕生するのです。

7000万年を1年とすると、500年前の戦国時代は4分前で、80年生きてる人は36秒前に生まれたんだよ。 人生80年、携帯メールが一つしかできないね。 
   
   
「三熊山の木」

登山途中には、大きくな木が沢山あります。 「三熊山、命の名水」があって、竹筒から水が流れています。

一杯飲むと一年、二杯飲むと二年長生きします。 十杯飲むとお腹をこわすらしいよ。

中学生の頃、大人は大人、自分はいつまでも子供のままと感じていたよ。 絶対に45歳なんか来るはずがないと。 誰でも思ったよね。 でもあっと言う間に来たよ。
   
   
「城跡からの山風景」

柴右衛門狸を祀った祠があります。

昔々、芝居を興行中に木戸銭箱に木の葉が一枚入っていました。

不思議に思って調べてみると、なんと狸がお客に混じって芝居見物、皆でつかまえて、殺生してしまったのです。

ところがそれ以降、客が遠のき、これは狸のたたりにちがいないと、その狸の出身地だった三熊山にお祀りをすることになったのそうです。
   
   
「城跡からの海風景」

ここの温泉は、地下1300mの所に源泉があって、神経痛や消化器系の病に効能があるよ。

25歳を過ぎると、時間の過ぎるのが速いよね。 寝た瞬間に目覚ましが鳴っているし、朝に家出たと思えば、すでに夕日。

月曜は眠いと考えている間に、明日は金曜。 8月の連休が終われば、もうすぐ12月だよ。 この速さを止めるにはどうしたらいいのかな。

小学校の頃に、50分間で試験用紙に答えが書けたのは神業だよ。 不思議だね。 
   
    
「西の丸からの風景」

わかりますか。 天守のすぐ下からは紀伊海峡の青さです。

本丸に「何でも一つだけ願いを叶えてくれる」観音さまが祀られていました。 その前では「願い」が浮かばなかった。

もし願いがひとつ叶うなら・・、ここでもやっぱり浮かばなかった。 
    
   
「水の大師付近の海岸」

帰りは洲本市街から海岸沿いの28号線を北へ向かいました。

この岩から清水が湧き出していたので「水の大師」と呼ばれています。 でも1995年の地震で水は出なくなったのです。

海で働く人がいました。 男の顔は40代で決まるらしい。  仕事と言い訳しては遅くまでデスクでワーク、通勤時間で疲れはて、帰ればテレビと眠気。 やっと時間を作ればパソコンの設定ばかり。

こんな時間を過ごした40代のシワなんて、できない方がましだよ。 定年して一年もしたら、ただのシワだよ。 その時もあっという間に来るんだろうね。
   
   
行きは「明石大橋」、帰りは「フェリー」です。 船が大橋の下をくぐる時はドキドキするよ。

淡路島が少しづつ離れていきます。 時間が青さも消しています。

ありきたりだけど、もし願いが叶うなら、「人は仲良く生活したい・・」かな。 当たり前だけどね。

残りの人生、果たして願いは叶っているのかな。 波だけが時の流れを止めてくれるのにね。 
   

    
安宅氏(あたぎ)は、和歌山県の紀伊熊野安宅庄を拠点にしていました。 観応元年(1350)、安宅頼藤は海賊退治を要請され、淡路島に渡り由良城を本拠にしました。

その後、安宅八家衆と称して洲本・炬口(たけのくち)・安乎(あいが)・千草・岩屋・三野畑・湊など八ヶ所に拠点を置き、大永六年(1526)には、安宅治興が三熊山に築城したのが洲本城の始まりです。

室町時代、四国阿波と淡路は守護・細川氏が支配し、阿波の大族であった三好氏は細川氏に属していました。

応仁の乱で、細川成之が京の細川勝元を援護する時に、三好之長も京都に出陣し、のち之長・長秀・元長・長慶・義継の五代にわたり勢力を持ちました。

この三好長慶は、主君の細川晴元を近江に追放し、足利義輝を京都に迎えて幕府の実権を握ってしまうのです。 その時、安宅家は長慶の弟・冬康を養子に迎えました。

永禄三年(1560)、十三代将軍・足利義輝は三好長慶と対立し、一旦は近江に逃れ、その後和解をしたのですが、長慶に仕えていた松永久秀と三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好政康)は足利義栄を擁立し、二条御所で義輝を殺害するのです。

この時、冬康は足利一族の河内守護・畠山高政軍を敗退させています。

そして、三好方の武将は各城を受け持ち、冬康も岸和田城に配置されるのですが、河内飯盛城で兄・長慶に殺害され、その後は安宅信康が継ぎました。

元亀元年(1570)、足利義昭を擁立した織田信長に石山本願寺が対抗した時、はじめ安宅信康も本願寺に味方するのですが、織田の攻撃を受けて信康は降伏し、織田方に従うのです。

天正四年(1576)、信長に追われた義昭を迎えた中国の毛利氏が、本願寺への兵糧輸送を図った時に、信長は安宅信康に阻止するよう命を下しました。

そして毛利と織田の船団が木津川口で激突、その時は織田方は敗北します。

天正六年(1568)再び毛利水軍と織田方の鉄甲船団が海戦を交え、今度は毛利方が完敗、ここに織田水軍による海上支配が完成したのです。

この戦いの後、信康は没して弟・清康が洲本と由良城主になりました。

天正九年(1581)、鳥取城を攻め落とした羽柴秀吉は姫路に帰り、毛利氏の最前線である淡路を攻めました。

秀吉は明石から船を出して、岩屋城を落とし、そのまま南の由良城に攻撃をかけました。

ついに清康をはじめ島内の国衆は降伏、淡路は秀吉の手中に入りました。

安宅清康が没した時、淡路の安宅氏も滅亡していくのです。

『参考文献を参照』

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