豊岡城

兵庫県豊岡市京町

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播但連絡道「和田山IC」で降ります。 そのまま国道312号線から9号線へ、再び円山川沿いの312号線を北へ走り豊岡市街に入ります。

JR豊岡駅から南東800mあたりに小高い山があり、その標高48m神武山には豊岡城(とよおか)があります。
   
     
古くは木崎城や城崎城と呼ばれ、豊岡城(亀城)は秀吉時代の名前だそうです。
  
  
「神武山へ」

明治五年に神武天皇陵の遥拝所が作られたことから、神武山や神武山公園と呼ばれています。

図書館の南側に駐車場があって、そこから登る所です。
    
  
 杉原氏が断絶してからは、城は壊され使用停止されました。

本丸の南側斜面には3本の縦堀が確認されています。 中世時代の遺構だそうです。
   
   
「豊岡の街」

戦前には、航空監視所が置かれて、南から侵入してくるB29などを監視していた場所でもありました。  
   
   
「旧豊岡県庁の正門」

豊岡市立図書館の正面には、明治三年当時の久美浜県(現京都府)の正門が豊岡県に合併された際に移築されました。

明治九年に豊岡県は、兵庫県と京都府に分割されました。
はずかしいけど、今の今まで知らなかった。 久美浜県や豊岡県があったことを。

実際に現地に行くと、ほんと勉強になるよね。  
   
   
「武家屋敷」

図書館の建設の際に発掘調査が行われて、京極期、杉原期、明石・福原期、それ以前の4期の遺構が続々と発見されました。

なんと、杉原長房の城主館からは50m以上の石垣が出土したのです。 
   
   
「大石りくの像」

円山川に架かる「堀川橋」を渡ってすぐ南側にあります。

播州赤穂・浅野家家老の大石良雄の夫人りく(理玖)は、この豊岡藩主・京極家の家老石束毎公(つねとも)の長女として生まれました。

元禄十五年の吉良邸討入りの年、夫・良雄と長男・主悦と別れ、長女クウと次男吉之進を連れて豊岡の実家に帰りました。

豊岡県庁の正門の近くの「りく生誕の碑」や「京極家の墓」も忘れずにね。
   
   
「りくの遺髪碑」

「りくの像」から小山を登ったところの正福寺にあります。

夫と長男の切腹、クウと吉之進の早逝という試練のなか、幕府反逆人の妻として世をしのび、尼として生きた女性でした。

三男・大三郎が広島の浅野家に召し抱えられ、広島で六十八歳の生涯を閉じています。 ここは、りくの遺言により、娘クウの墓の傍に建てられた遺髪碑です。

左がクウの墓、中央がりく、右が吉之進の碑です。
   

   
鎌倉時代の頃、豊岡は城崎と呼ばれ関東御家人の南部氏が入ったといわれています。

のち城崎城は但馬守護・山名宗全が築き、その被官・垣屋氏に守らせて、但馬支配の中心拠点となりました。

天正八年(1580)、羽柴秀吉の「第二次但馬攻め」で、出石にある山名祐豊の有子山城を落として、その子・氏政も鳥取城へ敗走させました。

出石には青木勘兵衛、豊岡には宮部善祥房を置きました。 この宮部氏が豊岡城を築いたといわれています。

天正十年(1582)、秀吉は鳥取城を攻め、そこへ宮部善祥房を移しました。 その後、豊岡城主は木下重堅、尾藤知定、明石則実、福原道高と交代し、慶長二年(1597)、杉原長房が肥前の白杵城から移り、長重・重元と続きます。

北政所ねねの実家が杉原家で、ねねの母の兄が杉原家次、その子が杉原長房なのです。

この杉原長房は、関ヶ原の合戦では西軍に属し、丹後の細川藤孝・忠興が守る田辺城を囲んでいました。

この合戦では負けたのですが、妻の父・浅野長政が東軍に付いていたために、その罪を許されました。

杉原重元は早くして世を去ったため杉原家は断絶し、この丘にあった豊岡城も廃城になりました。

寛文八年(1668)、京極高盛が田辺城から入り、この時は丘の城ではなくて、陣屋を中心とした城下町でした。

この京極氏は、 足利尊氏の頃にバサラ将軍として活躍した高氏(道誉)や、室町幕府の侍所の長官である山名・一色・赤松の諸氏に並んで四職に就いていた氏族です。

明治二年(1869)、九代・高厚の時に版籍を奉還、そして2年後には廃藩置県が行われるのです。

『参考文献を参照』

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