恒屋城

兵庫県姫路市香寺町恒屋

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国道312号線を北上し、姫路市の北端にある溝口交差点で410号線を西へ走ります。

JR播但線「溝口駅」を越えて3kmほど行くと左に恒屋公民館、右にJA中寺支店のところで北側に見える標高236m常居山には恒屋城(つねや)があります。
    
     
消えかかっていたけど「恒屋城跡」と読めてよかったです。

恒屋城は北側の後城、南側は前城と2つから成っています。
図面を忘れたので、どこが前でどこから後ろか、家で写真と図面を見ながら悩んでいます。

下の写真「堀跡」は、前だったのか後ろだったのか。 城山城(きのやま)での教訓を思い出したけど、もう遅い。
  
   
何かが帽子の上をつついているのですが、素手で触って刺されたら非ステロイド系の薬をリュックから出すのが面倒なので無視することにしました。

降りてから帽子を見て、びっくりです。 クモの巣がいっぱいで、それに絡まっていました。 こんな一生ではなかったと思っているでしょうね。
     
    
とにかく草がいっぱいです。 でもこれだけでも見れて楽しい。

山城探索の時期は秋から春がいいのだけど、時期はずれの探索も楽しいもんです。 
    
    
笹草(草の名前はわからないので、ここでは笹草と呼ぶ)で道が見えなくなってます。

熊と戦うナタは持ってきたけど、ナタでは切りにくいし。 夏の山城には草刈機も必要なのか、ガンジキも運ぶなら一輪車が要るではないか。

でも、大切に育てているかもしれないので、そっとかき分け進むことにしたのですが、すぐギブアップです。

明禅寺城の教訓がいかされず、またもや半袖Tシャツは失敗であった。
    
   
平成15年、八月の休みは雨ばかり、夏は終わってしまったのかな。 サラリーマンの盆は盆らしく高校野球とビールで昼寝。

夜はビールとプロ野球。 あまり大きな声では言えないけど、プロの方は夏どころか秋までも終わらせているような・・。

山で汗いっぱいかいて、ビールでやっぱり昼寝かな。
   
   
「日本玩具博物館」

世界140カ国から7万点余りの玩具や人形を集めて、白壁土蔵造りの6棟の建物で展示されています。

大人も懐かしさに感動します。 これは駐車場横にある「絵かきあそび」です。 休みにビールと昼寝しか知らない世代人でも「カエルのコックさん」は知っているよ。

ここのは知らないけど、知ってたらこわいよね。 
  
   
「バラ園」

香寺町ではないのですが、312号線を姫路方面に走るとすぐ市川沿にあります。

5月下旬から6月初旬、10月中旬から11月中旬までのシーズンはバラの花と香りに埋まるそうです。 川に沿って果樹やハーブ、草花が植えられた散歩道も設けられています。

時期はずれでも、美しいものは美しく、楽しいことは楽しまなければ、ビールと昼寝で目が覚めた頃には、夜寝る時間になってるよ。 
    

  
地図でよく見ると、恒屋城から3kmほど西に行くと、赤松政則が赤松家を再興した置塩城(おきしお)があります。 

この赤松氏は義村・晴政・義祐・則房と五代続くのです。

二代目・義村の頃、
室町幕府の管領細川勝元の子・政元には子供がなく、三人の養子をとりました。 細川澄之、澄元、高国です。

最初に養子になった澄之は、澄元に家督が譲られることに危機感を持ち、義父・政元を暗殺し、澄元も近江に追い出しました。

高国はその仇を討つため澄之と争っているのですが、澄元が細川家の家督を主張してきたので、澄元も追い出したのです。

備中・鴨山城以来、細川氏は相変わらず複雑な渦が回っているのですが、この渦は赤松氏も巻き込んでいくのです。

赤松義村と政則の後妻・洞松院は、最初の養子・澄之に味方していたのですが、澄之が滅ぼされると洞松院は高国を押すのです。

そこで義村と洞松院は対立し、家臣の浦上村宗の計略で、義村は室津城に幽閉され殺害されるのです。

三代目・晴政の頃、
晴政は細川高国の反対勢力である細川晴元と結び、摂津天王寺の戦いで浦上村宗を討ち勢力を回復するのですが、間が悪いことに、出雲の尼子晴久が尼子氏再興を願って、播磨へ侵攻してきました。

赤松一族や年寄衆の多くが尼子方に走り、晴政は播磨を捨て淡路、のち和泉の堺へ逃亡しました。 のち幕府の援助で復帰したものの子・義祐と対立し龍野の鶏籠山城で病死しました。

四代目・義祐の頃、
鶏籠山城主・赤松村秀が浦上村宗の孫・清宗と小寺氏の娘が室津で結婚式を挙げる夜に、浦上政宗・清宗親子を暗殺、この事件で嫌気がさした義祐は引退します。

この頃から備中・美作を失い、播磨国内の領地も取られ神崎郡の東半分と飾西・飾東しか残っていないのです。

飾東は黒田官兵衛、飾西は小寺氏が実権を握り、幕府も赤松氏から播磨守護を取り上げているのです。

そして実質残った領土がここ恒屋城があるあたりなのです。 この恒屋城の最後の城主・恒屋正友は、赤松一族の長水城・宇野政頼の五男で、恒屋光氏の養子となった人物です。

赤松氏の最後・則房の頃、
桶狭間で今川氏を破った信長は、秀吉に播磨攻めを命じました。 この時から則房は秀吉に付くのです。

信長に対抗した三木城主・別所長治は自害、伊丹有岡城・荒木村重の一族は滅亡、天正八年(1579)垣屋正友の実父・宇野政頼も毛利氏について秀吉に抵抗したとき、正友も長水城で籠城しました。

長水城が落城した時、正友は秀吉に許され黒田如水・長政父子に仕えているのです。

『参考文献を参照』

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