長水城

兵庫県宍栗市山崎町長水山

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中国自動車道の山崎ICから国道29号線、「道の駅山崎」の交差点を西へ、429号線を3kmほど走ると、道沿いに伊水小学校があります。 

その北側の標高585mの山頂には、赤松一族・宇野氏の長水城(ちょうずい)があります。
   
    
毛利方についた理由。

宇野政頼が姫路城の秀吉のところへ服従を申し込みに行ったところ、長い間待たされました。

そのうち碁を打つ秀吉の声が聞こえ、政頼は席を立って帰りました。
  
  
毛利方についたもう一つの理由。

信長と一向宗との間で争いが起こった時、山崎町にある宇野氏・広瀬氏の菩提寺である西光寺の第五代住職了海という方が、檀家を率いて石山本願寺に籠城しました。

家来や領民の中には本願寺門徒が沢山いた為、信長方に付くことができなかったともいわれています。
   
   
「うぐいすの滝」

登山口から小さな水の流れを聞きながら登ります。 15分ほどでこの滝が見え、少し休憩です。 これからが本番。 ひたすら登ります。
   
   
尾根に着きました。 しっかりと丸太で整備された長い道が続きます。 落ち葉の感触、鳥の声、時おり動く草むら。

横は急斜面になっているのですが、木々があるので安心です。 ひたすら歩きます。
   
  
「真徳寺」

この裏には、宇野一族の供養碑があります。

ここは石垣がある山頂なのに、隣には民家があり生活をされているようです。

随分前から長水城への意気込みを持ち続けているものの、山の高さがその気持ちを砕いてくれるのに、生活している人がいるとは、まったくすごいの一言です。 
    
   
見晴らしが良いと、南側は瀬戸内海の家島諸島・男鹿島が見えるそうです。 これは北側の山です。

城跡から尾根づたいに東へ1.9kmほど行くと展望台がありました。  
   
   
巌石神社の磐座(いわくら)」

小学校から少し東の道沿いにあります。

古代神を祭るため、神霊が宿ると考えられた石の標識です。

石は加工されないのが普通で、この神社の磐座はおよそ10mもある巨石で全国的にも珍しいものです。

起源は二千二百年前の頃と言われています。

左右にある木がすごい。 長水城の後で、この木のてっぺんを見上げると、くらくらと落ちてしまいます。 
   

   
宇野氏は、村上源氏の後裔と称し、この地より西の上月城があるあたりの佐用郡宇野庄に住んでいました。

この宇野氏の勢力が大きくなり、南の上郡に住み移ったのが赤松氏ともいわれています。

文和年間(1352〜56)、白旗城主・赤松則村(円心)の三男・則祐がこの要害の地に砦を築き、兄範資の四男・広瀬師頼が初代城主になりました。

嘉吉元年(1441)、赤松満祐が起こした嘉吉の乱で落城、それより応仁の乱までの間は山名氏が支配していました。

その後、赤松政則が一族を再興させ置塩城を築いた時、この長水城には宇野氏が入り、のち村頼・政頼・祐清と続きました。

天正の頃、織田信長が勢力を伸ばし、この播磨にも羽柴秀吉が攻め入り、播磨の諸氏は織田に従うか毛利に付くかの苦悩が始まりました。

この長水城の宇野政頼と次男・祐清は毛利方に付こうとしましたが、長男・満景は織田方に付こうとしたため宇野氏自身によって殺されてしまうのです。

播磨の英賀城・三木通秋、上月城・赤松政範、三木城・別所長治は毛利方についたのですが、天正八年(1580)に三木城落城、そして英賀城は秀吉軍に包囲されていました。

長水城から南西六キロ、山崎の街にある篠の丸城が落とされ、兵はこの長水城へと逃げ込んできました。 ついにこの長水城へも秀吉軍は向かって来たのです。

秀吉は兵糧経路を監視し、そして城内に内通者を送り込み、戦う気力が弱まってきた時に木戸平太夫、蜂須賀正勝(小六)らに一気に攻め込ませました。

この時の内通者は、殺された長男・満景の家来で、長水城に火をかけたのです。

城を脱出した宇野氏や家臣らは西へと尾根を伝って逃げ、岡山の美作にある竹山城主・新免氏(三男・宗貫の養子先)を頼って落ちていったのです。

しかし千種川が増水して渡れず、後ろからは追手が迫り、一族と家来は自害。 頑固なまでも一途な想いは、時代の変化とともに全てをなくしてしまうのです。

『参考文献を参照』

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