魚住城

兵庫県明石市魚住町中尾・西島

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明姫幹線(250号線)で明石市の「中尾北交差点」を南へ、山陽電鉄「西江井ヶ島駅」を越えると、赤根川河口の西側には魚住城(うおずみ)があります。
   
    
別所氏が三木城に籠城した時、毛利勢の兵糧を運ぶ基地としてよく知られているよ。

その魚住城は2つあったんだね。

西側の住吉神社のある中尾には最初のお城、基地として築いたのがここ西島のお城だね。
 
   
少し東には堀とも思わせる溝、その西側一帯が高い台状になっているよ。

その道沿いに祀られた五輪塔、当時を祀っているのかな。

毛利の水軍が、魚住に大量の食糧を陸揚げした時、秀吉勢は三木城の南に、三十ヶ所の付城を築いて糧道を遮断していました。

でも毛利勢は、西の加古川を上り北側から運び入れたんだね。
     
     
「住吉神社の能舞台」

寛永年間に明石城主・小笠原忠真が建立したとあるよ。

住吉神社は、海の神である底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三社と神功皇后が祀られ、海の安全を祈っています。

この魚住が住吉神社の発祥とも云われている、裏の藤棚も見てね。
    
   
「小式部内侍の供養塔」

百人一首から

「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」

和泉式部と橘道貞との間に生まれた小式部内侍の歌です。

この供養塔は、お城跡から北のJR魚住駅を越えて「錦が丘中央公園」から少し南西にあるよ。
   
   
「長坂寺遺跡」

更に国道二号線を北に越える、大道池の西だよ。

聖徳太子が創建した長幡寺のことで、秀吉による三木合戦で焼失しました。

娘に先立たれた和泉式部は、姫路の書写山の性空上人をたずね、その帰りに魚住の長幡寺にこもり、娘との出会いを念じて法華経を読みました。

すると香煙の中に小式部内侍が現れたのです。
   
    
たぶん中央辺りが、魚住の城跡かな。 初めて来たけど淡路島も砂浜もきれいだよ。


母、和泉式部の歌

「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな」

あの世に旅立つ思い出に、せめてもう一度、あなたに会いたい
   

    
魚住城は南北朝時代に赤松氏の一族である魚住長範によって魚住町中尾に築かれました。

天正六年(1578)、魚住頼治は毛利軍が三木城へ兵糧を運ぶ基地として、西嶋の丘に柵を巡らし新しく城を構えてます。

天正八年(1580)に、三木城の落城とともに魚住城は廃絶したのです。

平成十年の発掘調査で魚住城の堀割の一部と考えられる遺構がみつかり、ここに城があったことが確認されました。

『現地案内を参照』

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