兵庫県三木市吉川町渡瀬 | |
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中国自動車道「ひょうご東条IC」から17号線を東へ走ります。 357号線を少し南に入ると吉川高校、そこが渡瀬城(わたせ)と云われています。 |
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JAの所から南には高校、その道沿いに「渡瀬古城跡」「法光寺」の道標がある。 そこから坂を上ってもお城は分からない、法光寺を過ぎて細い山間の集落に入ってしまう。 戻ってくる、やはり城跡は高校になっていたんだ、背後の山に登るとお墓が一つあるよ。 |
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「法光寺」、白雉二年(651)、法道仙人が開いたと云われています。 この銅鐘(どうしょう)は、慶長六年当時の鋳物師集団「姫路野里の鋳物師」が造ったらしい。 これからの社会に出る人、英会話・パソコン・体力と手に職があれば大丈夫。 と言いつつ、他人に対する気づかいが一番大切だと今にして思うね。 |
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文治元年(1185)、佐々木義範が源頼朝からこの地を賜り、渡瀬氏と名のりました。 明徳二年(1391)、足利義満は山名氏が勢力を持ち過ぎたため、山名氏の内紛に乗じて、氏清・満幸らに時熙・氏幸を討たせました。 (明徳の乱) その後、義満と氏清は対立し、この時に渡瀬綱光は赤松義則や別所敦則らとともに、氏清を攻めて功績をあげ築いたのが渡瀬城です。 のち渡瀬盛久・高治・好高・好範・好光と続きました。 天正五年(1577)、秀吉の中国攻めが始まると、最初は三木城主・別所氏と同じく、秀吉に従いました。 翌年、別所氏は毛利方に付き、三木城で籠城、渡瀬好光も別所氏に従いました。 そして三木城落城の前に渡瀬城は攻められ、好光自ら火を放つのです。 『参考文献を参照』 |
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