八木城

兵庫県養父市八鹿町八木

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9号線を鳥取方面へ、八鹿(ようか)バイパスの南但馬トンネルを抜けて7kmほど走ると「下八木」のバス停があります。

そのすぐ北側の標高330m(比高230m)の山頂には八木城があります。
    
   
この八木城から尾根続きで北西に「八木古城」があり、「土城」とも呼ばれています。 八木氏は南北朝時代に古城から移ったといわれています。

古城はすぐ隣の山で、見えてるのですが土城ということで草が少ない冬の季節に来たいと思います。
  
  
登山口には山にいる動物達が降りてこない様に囲いをしています。 針金の端のフックをはずして中に入り、また元に戻しておきます。

この瞬間、「大丈夫」と自分に言い聞かせては深呼吸。

登記帳が置いてある箱がありました。 中を見ると「ノート」と「熊よけの鈴」が一つ、でも「大丈夫、この前買ったかわいいカウベルがある」と言い聞かせ、トランクに置いてきたカウベルとステッキを取りにいきました。

記帳して、約1km先の城跡目指して登ります。
    
   
「竹に囲まれた休憩所」

4合目ぐらいにある休憩所、汗の流れが止まらない。

ここで見たことがない物を発見。
地上から高さ15cm、直径が1.5cmの白い棒状で、先がツクシの様に丸くて紫色です。

それも、道の真ん中に一本だけ。 写真は撮らなかったのですが、何なんでしょうね。

動いていなかったから植物だと思うのですが・・。 誰か知っていたら教えてくださいね。  
   
   
初めて、ステッキ(杖)を使ったので疲れが違います。 手の力も使ってどんどんと登れるのです。 やっぱり山には山の装備が必要ですね。

でも道の落ち葉が所々乱れ、掘り返えされた土が谷の方に落ちてるのです。 きっと、この辺りは野ウサギが多いから入り口の囲いが必要なのでしょうね。 
   
   
「三の丸」

全身に汗が流れます。 ベルトを緩めて歩くほど若くはないのですが、ジーパンは重みでずり落ちてます。

次ぎは登山用のズボンと靴が欲しくなりました。 やっぱり夏山のジーパンは辛い。 
  
   
「二の丸」

八木豊信の後、垣屋氏に養子に入っていた弟・信貞が八木姓を名乗り、その子・光政は家康の傘下に入りました。

石仏が見えます。 後ろを振り返ってみたい、でも振り返えれない。 こんな気持ちになる時がありますよね。 
   
   
八木氏の後は、別所重棟が入りました。

重棟は三木城・別所長治の叔父にあたるのですが、長治は毛利に、重棟は織田氏に付きました。 長治は秀吉の三木城攻めで自害。

重棟は秀吉に従って九州攻めに参加しています。 ここでも、島津氏に仕えていた八木豊信は、繰り返し秀吉に攻められるのです。

歴史の不思議さは、関ヶ原で八木城を攻め落とした秀吉側が負け、秀吉に落とされた八木氏は東軍に属し、その後も存続していることですね。 
   
   
円山川(まるやま)支流の八木川です。

兵庫県の真ん中の生野峠から南の播磨へ流れる川を「市川」、北の但馬へ流れるのは「円山川」と呼ばれています。

いつも峠を越えるたびに流れの分れめを見つめているのですが、よくわかりませんね。

今年の梅雨も小川の流れに姿を変えて、四百年の時が流れた八木城に暑き季節の繰り返しを教えているようです。 
  

    
『平安時代』
奥羽(東北)の豪族・安倍氏がおこした戦いで源頼義・義家父子がそれを鎮圧しました。(前九年の役)  この時に功績があった閉伊氏(へい)が但馬国を与えられて築いたのが八木古城です。

『鎌倉時代』
但馬国を領していた日下部氏は、宗高の時に養父郡・朝倉の地名から朝倉氏と名乗り、子・高清は平家に付いたために源頼朝によってこの領地から去りました。

その頃、関東で大きな白猪(しろいのしし)が出て人々を困らせていました。 高清は源頼朝に命じられて白猪を退治し、その功績で再び但馬に迎えられ八木古城から東5kmに朝倉城を築いたのです。

同じ領地を持った閉伊行光と朝倉高清は戦い、そして高清が勝利し、子・重清(安高か)の代から八木姓を名乗らせて初代・八木城主になったのです。

『南北朝時代』
六代・八木重家は但馬守護の此隅山城を本拠とした山名時氏(宗全の三代前)の傘下に入り、山名氏の四天王(竹田城・太田垣氏、垣屋氏、田結庄氏)の一人として仕え、名族として活躍してきました。

『戦国時代』
信長は秀吉に中国・毛利氏の攻略を命じました。 秀吉は播磨の姫路城を拠点にして、西の毛利氏や北の但馬、鳥取へと軍を進めていきました。

天正五年(1577)、第一次但馬侵攻では、山名氏の此隅山城を落したのですが、播磨の上月城主・上月政範が叛したために但馬から兵を引き上げ、この時十五代・八木豊信はどうにかそのまま八木城に留まることができました。

この時代になると、山名氏内では織田氏につくか毛利氏につくかといったような状況になっています。

山名祐豊・垣屋光政・田結庄氏は織田派で、垣屋豊続・太田垣輝延・八木豊信は毛利派といったように内部が分かれてきたのです。

天正八年(1580)、播磨・三木城を落とした秀吉は再び但馬へ軍を進め、ついに八木城も落城してしまうのです。(第二次但馬侵攻)

豊信は秀吉の傘下に入り、秀長軍とともに鳥取城を攻めました。 鳥取城に籠もる山名豊国は降伏し、因幡の若桜鬼ケ城に八木豊信、私部城に山名氏政、岩常城に垣屋光政が入って、鳥取城の監視役につきました。

しかし、鳥取城には毛利元就の子・吉川元春が入り、巻き返しが開始されると、若桜鬼ケ城の八木豊信は但馬に引き返してしまうのです。

『その後』
八木城は秀吉の領地となり、九州へ流れた八木豊信は島津氏の佑筆として押紙にその名を残しているのです。

『参考文献を参照』

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