養宜館

兵庫県南あわじ市八木養宜中

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「神戸淡路鳴門自動車道」で明石大橋を渡り、そのまま自動車道を走り、「西淡三原IC」から31号線を南へ「志知交差点」から県道477・478号線を東へ向かいます。

4kmほどで北側には養宜館(やぎ)の道標があります。
    
    
ここは淡路守護の細川氏の館だよ。

細川氏は幕府管領家、阿波・讃岐、奥州、備中とこの淡路などに勢力を持っていました。 

いろんな所に名前が出てくるよね。 岡山備中の細川氏だけでも目が回るほど複雑な図式、ほんと細川氏の全てを掴むのは難しいね。
 
  
目の前の薬師堂や墓地を見つめ、そして遠くの田園を眺めてみる。

ここが中心なのかな、どこが端なのか、どう見たらいいのか。

あちこちを歩いてみる、確かに昔の出来事は風景に囲まれているようです。
    
   
周囲は南北250mと東西150mの土塁と掘りで囲まれていました。

この土塁はほんの一部、もっと続いているよ。 この外側には土塁に平行して水路が走っていた。 
   
   
戻ってきました。

やはりこの地は細川氏が守っていた、そう思うのだけど、囲まれた風景から遠くを見つめると思ったことを消してしまう。

昔の出来事、今の風景。 重なりそうで消えそう、不思議な空間だよ。
   
  
「淡路人形」

阿波藩の庇護により淡路人形は発達し、十八世紀中期の最盛期には40ぐらいの人形座があり、淡路島そして全国へも巡業していました。

「国生みの島」や「細川氏」の物語、一旦は両手で掴んだような気がする。

でも明石大橋を渡り終えると、物語は島へと帰ってしまう。

朝から夜までキーボードを打ち続けるだけの掌で掴めないのが、「神話」なのかもしれないね。
   

    
養宜館は、大土井と呼ばれ、南北朝から室町時代にかけて淡路を支配した、守護大名細川氏の居館であり、公衛(守護所)でした。

細川氏の初代師氏は、足利尊氏の命をうけ、暦応三年(1340)淡路に入り、宮方の宇原兵衛らを立川瀬の戦いで破ってこの館に入り、以後、7代約80年間淡路を支配した。

館は、ほぼ平坦な微高地に周濠を堀り、その土で土塁を築いた長方形のプランをもっており、もとは鎌倉時代の淡路守護長沼氏の居館跡であったとも考えられています。

永正十六年(1519)、7代尚春が阿波で三好勢に謀殺され間もなくこの館は廃止されたのです。

『現地案内を参照』

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