兵庫県姫路市飾磨区山崎 | |
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姫路バイパス「中地ランプ」を降りてから415号線を西へ、500mほどでJR英賀保駅の北へ入ります。 山崎の集落の北側には山崎城(やまさき)があります。 日本には5つしか残っていない風土記、その一つ「播磨風土記」探索シリーズ。 |
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この山崎城のすぐ南には英賀保駅、その南には英賀城があります。 山崎城は英賀城主・三木氏家臣の山崎氏が居城しました。 |
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「タンクの山」 真ん中にタンクがある分かるかな。 今回は車をどこに停めるか考えたよ。 登るのがJR山陽本線の英賀保駅の近く、降りてくるのがJR姫新線の播磨高岡駅の南。 地図でみると、姫路駅を頂点に2つの駅は三角形の様に広がり3kmほど離れてる。 かなり考えた結果、英賀保よりの「手柄山」におくことにした。 |
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「苫道国主神社(とまみちくにぬしじんじゃ)」 手柄山から西へ2km、上の写真の右の方だよ。 播磨風土記では苫編首という氏族がいたと書かれている。 文明十九年(1487)、赤松氏と山名氏が戦った苫編山合戦もあったらしい。 赤松政則が播磨を取り戻してから山名氏との争いが六年間も続いた頃だよね。 |
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「本徳寺」 タンク山の中腹にはお寺があるよ。 おばあさんと話、「うちのおじいさんは82歳やけど、毎日山に登ってるで、あんたも若いから登れるやろう」と。 さすがに若く見られたらか嬉しい。 不思議やね、残業して働いて、定年後も働いてる日本人が世界一の長寿国、世界からみると驚異的らしい。 どうも日本人は動物性と植物性のタンパク質を1対1で食べてるらしいよ。 |
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近くで見ると大きなタンク、お城の跡は特になさそう、左下に石が転がっていたけど。 山の南東に小さな郭があって、そこに碑があるらしい。 でも上へ上へと登る。 河口、工場、家、道、広い海、ひとり占めしたよ。 |
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「城之台」 5分も歩いた所の道沿で見た碑、タンク山の山頂付近だよ。 ひょっとしてここが城跡だったのかな、お城の文字が見れたのは嬉しいね。 |
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西の山々だよ。 左の低い山が京見山、則直城がある所、右の鉄塔があるとこが白毛山、高いね。 その右側の山には蒲田城があった所だよ。 ここからすごく眺めのいい岩場を通り、「苫編山」でお弁当を食べてる二人の邪魔をしないように「籾取山」へ行くよ。 |
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あの先にタンクがあったんだ、びっくりするぐらい歩いたみたいよ。 途中、堀切みたいな谷間でおにぎり出そうと、しゃがんでいた。 反対から二本ステッキ、全身バネのごとく飛び出してきたおじさん。 腕時計でタイム確認、地図に記入。 |
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「籾取山」 「明治33年、伏見宮貞愛親王殿下採蕨之跡」と書かれている、わらび取りをされた跡なのかな。 最後の「鬢櫛山」に行くね、ようやく「播磨風土記」の話になる。 大汝命(おおなむぢのみこと)、火明命(ほあかりのみこと)の父子がいました。 火明命はあまりに手をやくので、船を八丈岩山につけ、子供を捨てて父は船を出しました。 火明命は怒って風を起こし船を難破させた時、14の丘に荷物が落ちたのです。 |
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「14の丘」 波が起こったところは波丘 (名古山) 船が壊れたところは船丘 (嵐山、景福寺山) 琴が落ちたところは琴神丘 (薬師山) 箱が落ちたところが箱丘 (男山) 櫛箱(くしばこ)が落ちたところが匣丘 (鬢櫛山) 箕(みの)が落ちたところが水尾山 (秩父山) 甕(みか)が落ちたところを甕丘 (神子岡山) 稲が落ちたところが稲牟礼の丘 (稲岡山) 冑(かぶと)が落ちたところが冑丘 (甲山) 蚕子(ひめこ)が落ちたところが日女道丘 (姫山) 沈石(いかり)が落ちたところが沈石丘 鹿が落ちたところが鹿丘 葛綱(ふじつな)が落ちたところが藤丘(二階街) 犬が落ちたところが犬丘 |
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上の写真が櫛箱(くしばこ)が落ちた匣丘(鬢櫛山)、そこから見ている風景だよ。 でもここは高すぎるような気もするよね。 真ん中の向こうの高い山が書写山、この辺りまで海だったんだね。 丘にふさわしい山が見えてるよ。 たぶんこの丘のどれかに、何かが落ちたと思うけど、どれか分からないよ。 |
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「秩父山」 という訳で鬢櫛山から上の写真の左端の2つ丘がつながっている山の左側まで来たよ。 箕(みの)が落ちた丘なのかな、登ろうと思った。 でももう足が動かないよ。 車は手柄山、3km東南にある、足ひきずりながら車道を歩いた。 途中で食べた「たこ焼き」は美味しかったけど、全部行けなくて、ごめんね。 きっとつづくよ。 |
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「嘉吉の乱」を起こした赤松満祐には弟・祐尚がいました。 永享年間(1429-41)、祐尚が夢前川の河口に築いたのが英賀城、のち三木氏の本拠となったお城です。 ちなみに祐尚の子・則尚はここ山崎城のすぐ西の則直城を築いた人物です。 永禄三年(1560)、織田信長は京都へ入ると石山本願寺と対抗しました。 この時、播磨は三木城主・別所長治、置塩城五代城主・赤松則房、御着城主・小寺政職や黒田官兵衛は信長に従いました。 一方、上月城主・赤松政範、鶏籠山城主・赤松広英、長水城主・宇野政頼、そして英賀城主・三木通秋は毛利方についたのです。 そして三木通秋は本願寺に援軍を送りました。 この三木氏の家臣・山崎左京進広通が山崎城を築いたのです。 天正六年(1578)、別所長治は信長に叛旗を翻すと、秀吉は三木城を攻め落とし、続いて英賀城も落城、山崎惣右衛門広宗、伝助広厚などの山崎一族もこの時に滅亡するのです。 『参考文献を参照』 |
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