善防山城

兵庫県加西市西笠原町

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国道372号線で加西の法華山を過ぎたところの「善坊交差点」を北側の43号線(高砂北条線)へ入ります。

500mほどで西側に下里小学校への道があり、その背後、標高251m善坊山の山頂には善坊山城(ぜんぼうさん)があります。
    
    
善坊山へは、43号線の「下里農協前バス停」から入るコースと、下里小学校の南側からのコース、反対側の笠松山からのコースがあります。

今回は、小学校の南側から登りました。(学校正門の手前を山側に入ります。)

ここは東尾根で、向こうに見えてる山頂に城跡があります。 この帽子みたいなのは何やったんやろね。
 
  
善坊山は訪づれる人も多く、しっかりした登山道です。

岩場や急斜面があって、登ること自体が楽しくなりますよ。
    
   
一番上の写真は、山の先の所です。 ここから火山からできる流紋岩の岩肌の道になっています。

映っていないけど、左側には谷を挟んだ尾根に「とんがり岩」があって、尖った岩に2人ばかり、へばりついているのが小さく見えてます。 
   
   
 きつい岩道をへばりつきながら着いたところが「第二頂上」です。
ここは見張りをする所だったのかな。

すると裏側には、いきなり大きな石がしっかりと組まれていました。

道沿いに何気なしにあるので、町の石屋を発見という感じです。 一つ一つが大きいよ、作った人の性格がわかるよね。
   
   
 一の郭の周囲には渦巻き状になった曲輪があります。

ここに井戸が有りそうなんだけど、わからなかった。 少し道を進むと小さいけど堀切もあります。 

でもハイキングが中心みたいで、お城の案内や説明はないよ。 まったく当時のまま、これもいいんだよね。

曲輪下の木々の中へ入ってみるよ。
   
   
 あった、一の郭の石垣。 ハイキングコースの道からはまったく見えない所だよ。

まだ周辺にもあるみたい、そっと木を分けながら、自分だけの世界に入っていくよ。

何でもない、ただの石なんだけど、これが不思議な石なんだよね。 木と枯葉に埋もれながら、じっと見つめていたんだよ。
   
   
  ここで同年代の方と会い、城跡探索をしていると話すと、「いい趣味ですね」と。

休日はごろ寝で過ごす職場で話しても、なかなか通じるものがないけど、本当にうれしかった。

ここから奥の笠松山方面へ行くと「吊り橋」、また古法華には「日本最古の白鳳期の石仏」があるよ。 今回は行かなかったけど、ほんと行きたい所が沢山あるね。
   
   
「小野、加古川方面の風景」

靄(もや)がかかっている山々も美しいものです。

山頂で出会った方に、特製「城跡探索」名刺を渡したけど、石垣を見せてあげるのを忘れたよ。 今度登ったら、ゆっくり見てくださいね。

後で地図を見ると、西には庄山城が見えていたと思うよ。 早く庄山でも名刺が渡せるようになったらいいね。
   
   
「玉丘古墳」

善坊山から5kmほど北にあります。 南にある三木市志染から始まる「播磨国風土記」の1話のラストシーン。

於奚(おけ)と袁奚(をけ)という二人の皇子がいました。 於奚はのちの23代・顕宗天皇、於奚は24代・仁賢天皇です。

二人は美しい娘・根日女(ねひめ)を志染で見初め、求婚をしました。 根日女は謹んでお受けしたのですが、二人は互いに譲り合い、いつまでたっても結婚しませんでした。

ついに根日女は年老いて亡くなり、その墓がこの玉丘古墳なのです。
   

    
赤松円心・則祐・義則そして将軍・足利義教を暗殺した満祐がいて、その兄弟にはここ善坊山城主・赤松則繁がいます。

則繁は若い時から乱暴者で、京都の細川持之の邸内で安藤某を殺害するという事件を起こしています。

この時、将軍・足利義持は激怒して則繁に切腹を命じましたが姿をくらまし、のち義持の没後に許されています。

嘉吉元年(1441)、足利義教の暗殺は、則繁と満祐の子・教康が計画をすすめたことに始まり、則繁と教康が義教の左右の手にとりつき、安積行秀が討ったといわれています。

そして暗殺に成功すると、則繁は兄・義雅ともに京都の自邸を焼いて満祐に従い播磨に帰り、書写の坂本城で幕府の追討軍を迎えました。

則繁は、兄・満祐の命を受けて備中井原(岡山県吉井町)の善福寺に足利直冬の孫が僧になって世を忍んでいたのを迎えにいきました。

この直冬は尊氏の子だったのですが、尊氏の弟・直義の養子となって父・尊氏に対抗した人物です。 その僧は名も義尊と改めて、坂本の定願寺を仮御所としました。

幕府の追手は、阿波守護・細川持常、淡路守護・細川満俊や赤松庶子・貞村や満政(赤松一族だか敵対していた)で、明石の和坂の合戦では赤松満祐勢が勝利します。

しかし但馬から山名持豊(宗全)が坂本に迫り、赤松勢は坂本から西の城山城に移り、籠城しました。

まもなく留守兵しか残っていない善坊山城は落ち、そして城山城も落城、満祐は自害しました。

しかし則繁は室津城へと落ち延び、さらに倭寇となって朝鮮に渡り、清水将軍と名のって沿岸を荒らしているのです。

やがて則繁は九州へ帰り、少弐教頼と共に大内政弘を攻めたのですが敗れ播磨に帰ってきました。

この大内政弘は応仁の乱では西軍の山名氏に付き、細川氏・赤松氏とは対立していた支族で「”おいでませ山口へ”の西の京」はこの政弘が作っているのです。

敗れた則繁は、すでに播磨が山名氏の領国になっていたため河内の畠山氏を頼りました。 これを知った幕府は細川持常を派遣し、則繁の隠れ家である当麻寺を囲みました。

文安五年(1448)、 ついに則繁は自害し、そして京都で梟されたのです。

『参考文献を参照』

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