大聖寺城

加賀市大聖寺錦町

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北陸自動車道「加賀IC」から国道305号線を東へ走ります。

大聖寺関町から東へ入ると加賀聖城高校の北側、錦城山には大聖寺城(だいしょうじ)がありました。。
  
   
1001城目は石川県探索から始まる。 去年かな、福井県探索で石川県境まで来た時、目の前に大聖寺城があったんだ。

太平記や南北朝・一向一揆の戦乱の場にも登場する。 城跡には、「山口玄蕃頭宗永公之碑」があるよ。
 
登城道、そこには「贋金(にせがね)造りの洞穴」。

明治新政府から越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、洞穴の中で贋金を造っていた。

のち責任者の市橋波江は切腹、でも子息には倍の禄が与えられたという。

戦国に比べて最近の話、だから洞穴がなまなましいよ。
   

   
標高約67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていました。

天正11年(1583)、秀吉家臣の溝口秀勝が大聖寺の領主となって四万四千石で封じられ、その頃に修築したと云われています。

本丸を始め、二の丸・鐘ケ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていました。

慶長3年(1598)、溝口秀勝が越後新発田に転封した後、小早川秀秋の重臣・山口玄蕃頭宗永が七万石の領主として入城しました。

慶長5年(1600)、金沢の前田利長は徳川方に付き、山口玄蕃は豊臣方となって敵対するのです。

山口軍千二百に対して、前田軍は二万五千の圧倒的兵力で攻め立て、山口父子を始め多くの将兵が討ち死にしています。

殿閣を焼く煙は天にそびえたといい、落城後、前田利長はすぐに改修し城代を置くのですが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、以後再建はされなかったのです。

『現地案内を参照』

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