向日市物集女 | |
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阪急京都線「洛西口駅」から201号線を西へ、「御所海道交差点」を過ぎて次の信号を南へ曲がります。 物集女公民館の東側には、物集女城(もずめ)があります。 |
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西岡被官衆の一人・物集女氏のお城だよ。 南の長岡京市の今里城から歩いて来た。 小畑川を渡り、ホームセンタで休憩、竹の公園を抜けて東に下ると物集女の町内。 公民館で、足裏に靴擦れ防止を貼る、水ぶくれ、遅かった。 |
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お城の北には祠で盛り上がった地、南には梅の木。 剪定したのかな、あぜ道を歩く、東には土塁。 土塁の裏、「城の池」と呼ばれる堀があるよ。 物集女氏は秦氏の出身と云われ、また河内国の百舌鳥(もず)で勢力を持った一族が移り住んだとも云われるよ。 さあ足は更に北へ、革島城まで歩くんだ。 |
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この場所には室町時代から戦国時代にかけて、物集女城という館がありました。 目の前にのびる竹やぶは、館のまわりを囲んでいた土塁の東側の部分です。 南北41m、高いところで約3mの土塁が残されています。 左手の背の高いムクノキのある場所は、まわりより少し高くなっていて、土塁北西の角にあたると考えられています。 竹やぶの向こう側には、水をたたえた堀があり、「城の池」と呼ばれ、田んぼに水を引く用水池として利用されてきました。 この水は、向日丘陵(現在の西ノ岡)の中にある池から、水路を通って流れ込むようになっています。 竹やぶの手前、畑などに利用されている場所は、発掘調査がまだ行われていませんが、左の想像図にあるような屋敷や小屋が建ち並び、当主が生活をする館の中心部分(主郭)と考えられています。 館の主は、今から約500年前の室町時代終わり頃から、乙訓の歴史に登場する国人・物集女氏です。 その頃、このあたりは嵯峨天龍寺の荘園であり、物集女氏は物集女荘の代官(年貢を納める責任者)をつとめていました。 また当時の乙訓や、西岡(桂や川島付近もあわせたより広いまとまり)のリーダとして活躍しています。 永禄11年(1568)、信長が京都にのぼり、乙訓・西岡にも進出してきます。 信長勢の支配が強まる中で、当時の物集女城主・物集女忠重(入道して宗入とも)は最後まで反抗します。 ついに天正3年(1575)、信長から支配をまかされていた細川藤孝(幽斎)の居城・勝龍寺城下で忠重は討ち取られ、物集女氏は乙訓の歴史から姿を消しました。 物集女城も、この時に物集女氏と運命を共にしたようです。 物集女城跡は、その後も長く集落のなかで、城跡として維持され続けてきました。 現在の景観のなかに、京都をとりまく地域の歴史をたどることができる、貴重な場所となっています。 『現地案内を参照』 |
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