京都市中京区二条堀川 | |
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名神高速、「京都南IC」を出て北上します。 本来ならこのコースで行きますが、お正月で大渋滞。 途中、大阪の茨城ICで降りて、国道171号線を北上し京都へと向かいました。 |
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櫓は四隅にありましたが、現在は西南との2つだけ残っています。周囲は幅15mぐらいの水堀と、高さ6mの石垣に囲まれ、当時の姿でそのまま残されています。 向こうの端が蜃気楼の様に見えるぐらい長い堀です。 |
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「東の大手門」は、中央部に連窓、格子には鉄板が打たれて、慶長時代に建てられた面影が残っています。(国宝) 国道も大渋滞でしたが、なんとか京都に入り、ついに二条城に到着。 正月は普段より1時間早い閉館で、門の前にたたずんでしまいました。 お正月は車で京都に来ると、大変なのがよくわかりました。 門松が出迎えてくれました。 また、いつの日か来たいと思います。 |
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永録十二年(1569)、三好三人衆は、本圀寺に居た足利義昭を襲撃しました。 織田信長は、この事件を機会に、義昭を守るための居城として、二条城を築いたのが始まりといわれています。 この信長の城は、二条古城と呼ばれ、現在の烏丸あたりにありました。 (現在は学校の敷地になっています)
しかし、この古城は足利義昭の追放により、廃城になりました。 現在の二条城は、関ヶ原の合戦後に、徳川家康が上洛の時の宿所として築城したものです。 築城当時は、京都守護と公家衆の監視の役を果たしていましたが、、大阪冬・夏の陣の頃は、家康と秀忠の本陣として使用されていたのです。 三代将軍・家光の時には、五層の天守閣も建てられました。 この天守閣は伏見城から移築されたものともいわれています。 しかしこの天守閣は落雷で焼け落ち、その後も、京都町中からの出火で本丸殿舎と二の丸櫓も焼けました。 大坂城の天守閣と同じく秀吉の見えない力が働いていたのでしょうか。 家光以降は将軍が京へ上洛することがなくなり、二条城は衰退していきました。 再び脚光を浴びるのは、幕末の徳川慶喜によって大政奉還が、この二条城で行われた時です。 そして明治の世になったのです。 考えて見たら、少し前のことですね。 『参考文献を参照』 |
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