京都市上京区烏丸下立売 | |
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二条城から北側の丸太町通を東へ、京都御所の手前「烏丸丸太町交差点」の西、少し北へ入ると平安女学院の通りには二条古城(にじょうこ)の碑がありました。 | |
妙顕寺城から北へ歩く、すぐ丸太通だね。 今の二条城は家康、古城は信長が建てたんだ。 だから廃城の後、安土城の建材として利用されたんだね。 昭和49年、地下鉄烏丸線を建設する時、割れた石仏が沢山出てきた、石垣として使われたんだ。 今はどこにあるのかな。 |
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東側の通りにある「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」、室町幕府の三官領筆頭の斯波義将は武衛と呼ばれていた。 でも応仁の乱で邸宅は焼失、のち足利義輝が邸宅を構えます。 でも松永久秀に襲撃されて死去、邸宅も焼失するんだ。 京都は二重三重にも遺跡があるんだね、聚楽第へと歩く、黒田如水邸も見つけられるかな。 |
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永禄12年(1569)、信長が15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390m四方の敷地に、ほど70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天主」を備えた堅固な城を築きました。 周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測されます。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録簿より) その後、信長は、旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎い入れ、城は「二条御所」として使われていましたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となりました。 天正4年(1576)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用されました。 尚、現在の二条城は、家康によって上洛の際の将軍の居館として、慶長7年(1602)に築かれました。 『現地案内を参照』 |
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