勝竜寺城

長岡京市勝龍寺

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名神高速、「茨城IC」を出て、国道171号線を京都方面へ北上します。

秀吉と光秀が戦った「山崎合戦」の地を過ぎたところで、西側にJR長岡京駅があり、駅前の通称「ガラシャ通り」を南へ進むと、勝竜寺城(しゅうりゅうじ)があります。
  
城の中心部には、本丸と沼田丸があり、その周囲を堀でめぐらせていました。 沼田丸は細川藤孝の妻の旧姓にちなんで付けられてたそうです。

北東の神足神社(こうたり)付近には、城の北方を守るために造られた、土塁跡や空堀跡が残されています。

発掘調査では、藤孝の改修時代の石垣や多聞櫓には、鉄砲に対応した先駆的な築城技術を用いられていたことがわかりました。
  
この城は、明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ夫人)が十六歳で藤孝の子・忠興(十六歳)のもとに嫁いだところなのです。

戦いの跡は、歴史とロマンを秘めたお城になっているのです。
  

  
勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が歴応2年(1339)に築いたと云われています。

城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれています。

応仁・文明の乱(1467-77)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となりました。 戦国時代になると、信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が、元亀2年(1571)に二重の掘と土塁をもつ立派な城に改修しました。

天正10年(1582)の山崎合戦では、光秀が城に入り、秀吉との戦いに敗れ落城しました。

ところで、この城は光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が16歳で、藤孝の子・忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても、全国に知られています。

城の中心部には、本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらせています。

北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されています。

この城跡は、勝龍寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえりました。 これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られました。

その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものがあることが明らかにされました。

『現地案内を参照』

 
 
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