舞鶴市字南田辺 | |
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舞鶴自動車道、「舞鶴西IC」から国道27号線を北へ走り西舞鶴の街へと入ります。 JR「西舞鶴駅」を越え、「千日前交差点」を東へ曲がると舞鶴公園、そこが田辺城(たなべ)になっています。 |
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城跡に建物が建ってるよ。 後ろから見られているような気がしたけど、前から横から斜めから沢山撮った、感動。 ここは舞鶴公園、この門の上が資料室だったと思うよ。 |
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慶長五年(1600)、家康の命令で会津征伐の時、忠興は参陣、これに対抗して石田三成は大阪方の大名の奥方を大坂城に取り籠めようとしました。 ガラシャ夫人はこれを拒んで命を絶つのです。 三成は一万五千騎の兵で田辺城に攻め押し、幽斎は五百の兵で50日間戦いました。 |
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関ケ原の功績で、忠興は豊前中津に移り、代わって京極高知が入り、高知の遺命により丹後国を3つに分けました。 その内の庶子・高三が城主となって田辺藩ができました。 写真をバシャバシャ、上に登ると寄り添う二人。 「いい石だね」と語っているのだろうか。 |
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道を隔てた学校の前、正門かな。 少し北の西総合会館の所には「二の丸跡」の碑もあるよ。 京極氏が但馬豊岡に移ると、牧野親成が入り明治2年(1869)の版籍奉還まで続くのです。 日本海、愛を語ったのは大昔。 今では石なら語れそう、さあ次の場面に移ろうかな。 |
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田辺城は舞鶴城とも称され、その築城は戦国群雄のなかでも、知将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)8月、信長より丹後国をあてがわれ、子忠興ともに縄張りしたことに始まり、天正10年に完成したといわれています。 慶長5年(1600)7月、石田三成方1万5千騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか500人の兵で、田辺城に籠城して50余日を戦いました。 古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が、八条宮智仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した、世にいう古今伝授は籠城のさなかのことです。 その後、忠興は関ヶ原合戦の功により豊前中津に加封され、代わって京極高知が入国、元和8年(1622)高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主になって、3万5千石を領し田辺藩が成立しました。 寛文8年(1668)、京極氏が但馬豊岡に移封のあと、牧野親成がこれに代わり、以後牧野氏が明治2年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城しました。 城は細川氏の築城後、京極氏、牧野氏が拡張・改修をおこない,おこない、ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を、二ノ丸・三ノ丸・外曲輪とそれぞれの掘が囲む輪郭形式の平城として整備され、されに東の伊佐津川、西の高野川、南の低湿田、北の湾海としての役割をはたしました。 『現地案内を参照』 |
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