乙訓郡大山崎町 | |
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JR東海道本線「山崎駅」の北側には天王山、標高270m(比高240m)の山頂には山崎城(やまざき)がありました。 2008年12月、京都。 天下分け目の天王山、赤松氏のお城だったんだ。 |
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天正十年、本能寺。 信長は光秀に討たれた。 岡山から急ぎ帰った秀吉、光秀との天王山合戦。 あまりにも有名だよね。 でも播磨の赤松氏が築城したお城でもあるよ。 |
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大山崎のトンネルをくぐると美術館、建物に見とれる。 トンネルに戻り、秀吉の家臣団が居た宝積寺、さらに十七烈士の墓。 禁門の変(蛤御門の変)に破れた真木和泉を初めとする志士十七名が自決したお墓だよ。 天王山は歴史の宝庫と感心、更に上る。 城跡に着いた、確かに赤松氏の白旗城や滝山城の雰囲気に似ているね。 |
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井戸です、石垣もあったはず。 探したけど見つからず。 後で知った、井戸の北側だね。 山を下る、途中から幼稚園児が沢山飛び出してきた。 走ってぴょんぴょん降りていく、まるで忍者のようだ。 ゆっくりと降りるよ、大人は無理はできないね。 戦国部将では光秀が好きだ、言い訳しながら、完全に負けた気がしたよ。 |
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天正十年(1582)六月二日、京本能寺で信長が討たれました。 その報は二日後、中国地方備中高松城攻めを信長から命ぜられていた秀吉の元にも届きました。 秀吉は、急遽毛利氏との和睦を成し、山陽道、西国街道をひた走り京を目指しました。 一方、主君信長を討ち、京、近江を制圧した光秀は、秀吉が京を目指して兵を移動させていることを知り、軍勢を摂津、河内境へと進めます。 六月十三日午後4時頃、戦いは始まり、秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突しました。 戦いは短時間で決し、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わります。 敗北を知った明智の兵は方々に逃散し、光秀も本陣背後の勝竜寺城に一時退却、夜陰に乗じて僅かな手勢を伴って近江へと逃れていきました。 一行は、桃山丘陵を越えた小栗栖で土民の襲撃を受け、光秀は竹槍にかかり乱世の戦いに明け暮れした短い生涯に終止符を打ちました。 合戦直後、秀吉は天王山一帯に城を築城し、大山崎から天下統一へと乗り出すのです。 『現地案内を参照』 |
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