浅尾陣屋

岡山県総社市門田

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岡山自動車道、「総社IC」から180号線を西へ、JR総社駅手前の「市役所入口交差点」から北へ、吉備線を越え消防所手前の小さな川沿いの細い道を西へ進みます。

500mほどの北側にある高台が浅尾陣屋(あさお)です。
   
   
岡山の総社といえば、あの古代山城の「鬼ノ城」がある所だね。

南の180号線は何回も走っている、見たいと思って2年が過ぎてたよ。
 
  
陣屋は高台、その山頂の稲荷神社です。 土塀の一部が残存し、この塀の復元の参考としたとあります。

周りは遊歩道、なかなかの見る所があるよ。 と書きながら、神社の石段に座り休憩してから降りたよ。
     
    
「浅尾藩馬場用水跡」

井戸はどこかな、と探していた。 車を置いた横が井戸、うかっとしていたよ。

中を見ると水がいっぱい、今でも何かの用水に使っているのかな。

見るのを忘れたのは何だろう、今でも思い出せないよ。

また来るけど、田んぼの風景が変わる頃に思い出すのかな。
   

   
初代・蒔田広定(まいた)は、慶長八年(1603)、一万石の大名となり、この総社の地を本拠とし、旧総社町の一部、備中国分寺のある旧三須村などが領地でした。

寛永十三年(1636)、二代・定正の時に、弟の長広に領地の一部を分割した為、一万石を割って旗本となり、以後230年間は旗本の時代が続いています。

幕末の文久三年(1862)、十二代・広孝の時、高直しを許されて、再び一万石の大名となり、旗本時代、井出の知行所を廃して、この浅尾の地に陣屋を構築しました。

元治元年(1864)、「蛤御門の変」において、蒔田広孝は京都見廻り役として京都警固にあたり、長州勢を撃退します


このことが遠因してか、慶応二年(1866)四月十二日、、長州第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎ら浪士百余名により襲撃されるのです。

いわゆる「倉敷浅尾騒動」により、陣屋の大部分が焼失し、その後十分な再建もされることなく明治維新を迎えました。

この陣屋は、低丘陸上(標高約30m)にあり、山頂を占居(約十町歩)して、山城の城郭構造の系流に属するもので、藩主の御殿を中心に家中家敷や、御台場、調練場等を配し、土塀(一部が残存しており、今回の復元の参考とした)等で周囲を固め、一定の城郭構造となっています。

『現地案内を参照』

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