岡山県高梁市内山下 | |
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岡山自動車道、「賀陽IC]で降ります。 国道484号線を西へ走り、高梁市(たかはし)が一望できる松山を超えます。 180号線を高梁川沿いに2kmぐらい北上すると東側に備中松山城(まつやま)城の入り口案内があります。 |
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休日ともあって、車は麓の「城見橋公園」で駐車して、そこから専用バスで「ふいご峠」と呼ばれるところにまで登ります。 この専用バスは、落ちそうな谷を見ながら細い道を何の気なしに右に左にカーブしながら走るのです。 気持ちよく目を閉じ、車中で松山城の説明を聞きながらの探索もいいなと思ったのですが、それでも残り1kmほど歩きます。 |
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「日本十二城の一つ」 天守が残るお城は、江戸時代には170もあったのに、今では12城しか残っていないのです。 青森県弘前市 弘前城 長野県松本市 松本城 愛知県犬山市 犬山城 福井県坂井郡 丸岡城 滋賀県彦根市 彦根城 兵庫県姫路市 姫路城 島根県松江市 松江城 香川県丸亀市 丸亀城 高知県高知市 高知城 愛媛県松山市 伊予松山城 愛媛県宇和島市 宇和島城 |
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「日本三大山城の一つ」 2層2階の独立式天守で、天守の位置は標高430mもあり、日本三大山城の一つともされています。 岐阜県恵那郡 岩村城 日本一標高(721m)が高い。 奈良県高取町 高取城 日本一比高が高い。 (標高583m、比高390m) 山城と言っても、200〜300mが多く、この高さにはびっくりです。 今でこそ麓まで車で行けますが、昔の人は歩いて旅をして、最後に山を登るなんて。 当時の「歩こう会」は今の10倍ぐらい歩いて、やっと歩いた気がするのでしょうね。 |
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「羽柴秀吉の中国攻略」 天正十年(1582)、羽柴秀吉の中国攻略が始まります。 しかし本能寺で信長が討死し、備中高松城の水攻めの最中、毛利氏との講和が成立しました。 ここ高梁川を境に、東は織田氏、西は毛利氏が領有することになりました。 この松山城は東側にあったのですが、よっぽど重要な場所であったので、ここだけは毛利氏が支配しています。 |
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「関ヶ原の合戦」 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で西軍・毛利氏は敗北、松山城は徳川氏の手に納まり、小堀正次・政一が国奉行として入りました。 その後、鳥取から池田長幸、ついで成羽から水谷勝隆が入りました。 勝隆は新田の開拓や高梁舟の水路の開発など、経済を整備しました。 二代目・勝宗は松山城の大改修を行い、現存する天守・二重櫓・大手門などは当時のものです。 最近の修築では、麓からワイヤロープで瓦を上げたそうですが、二年かかったそうです。 当時の人は瓦を背負って登ったのでしょうね。 |
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「江戸時代」 元禄六年(1693)、播州赤穂藩の浅野内匠頭が城の受け取りにあたり、大石内蔵助が一年ほど在城しています。 あの赤穂浪士の人ですよ。 その後は、安藤重博・信友、石川総慶が城主となり、延享元年(1744)に伊勢亀山から板倉勝澄が入城、七代続いて明治を迎えたのです |
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いつも思うのは、日本で数万のお城が築かれ、戦国時代の領地争いで潰し合い、江戸時代の「一国一城令」で壊され、そして昭和の世界大戦でほとんどが焼かれてしまったことです。 「一国一城令」までは、しかたないとしても、近代の戦争で失くしたことは、本当に残念な歴史の事実です。 |
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「石火矢町ふるさと村」 国道筋から登山口方向に少し入ったところです。 「男はつらいよ」第8作のロケ地にもなりました。 第32作も近くの薬師院・松連寺でロケをしています。 早くビデオで見たいですね。 高梁は街全体に見所が沢山あり、1泊2日の計画を立てて、ゆっくりと散策する方がいいと思います。 備中激戦の地であった高梁、今では街と人の想いが「歴史と文化の薫る町」として輝いているのです。 |
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「山中鹿之介の墓」 落合町阿部にあります。 出雲尼子氏の重臣であった鹿之介は、播磨の上月城で再興を志したのですが、毛利勢に捕らえられ備中松山城へ護送される途中、ここ阿井の渡場で不意討ちにあい、斬殺されました。 この墓碑は正徳三年(1713)、松山藩主石川候の家臣前田時棟が建てたものだよ。 |
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延応二年(1240)、有漢郷(現上房郡有漢町)の地頭・秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことに始まります。 元弘年中(1331-34)、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎佐衛門宗康が大松山に入城しました。 この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させ、その後も、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わりました。 永禄四年(1561)、安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主・三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となります。 元亀三年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の信長と結び、毛利氏に反旗を翻すのです。 天正二年(1574)、冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で、備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開されました。 いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・左内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがえます。 また居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓 現高梁高等学校用地)に設けられていたようでありますが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかではありません。 関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせていました。 小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は慶長十年(1606)に御根小屋と備中松山城の修築を行っています。 その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。 その子長常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永十九年(1642)、水谷勝隆が入城しました。 水谷氏は、勝隆・勝宗・勝美の三代が備中松山藩を治めています。 初代の勝隆により、玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっています。 さらに二代の勝宗は、天和元年(1681)から三年かけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など全容が完成しています。 しかし、三代の勝美が若くして急逝、後継ぎがなかったため水谷氏は改易となるのです。 元禄六年(1693)、水谷氏断絶後、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまっていました。 その後、安藤重博・同信友次いで、正徳元年(1711)に石川総慶が城主となり、延享元年(1744)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城ました。 板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝ラ(かつあき)・勝職(かつつね)・勝静(かつきよ)・勝弼(かつすけ)と七代続き廃藩置県を迎えるのです。 『現地案内を参照』 |
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