岡山県岡山市高松 | |
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山陽自動車道。「岡山総社IC」を出て、国道180号線を東へ1kmほど行くと、高松城跡(たかまつ)の案内標識があります。 ここ高松城は、「秀吉の水攻め」として有名で、織田と毛利の戦いの最前線となった城跡です。 |
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城主・清水宗治は、智勇兼備の名将と称されていました。 時世の歌 「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」 |
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付近には「清水宗治首塚」、「足守川水取口」、秀吉が本陣を置いた「太閤岩」があり、写真の白い建物は歴史資料館になっています。 軍師官兵衛、秀吉に天下狙いを進言、光秀の謀叛を感じていたと思うよね。 |
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「史跡舟橋」 三方を掘りに囲まれていましたが、この南手口には、具足の武士がようやくすれちがう程の細い道があり、開戦直前に八反堀を掘り、外濠(そとぼり)としました。 そこに舟を並べていたので、舟橋といわれ、城内から攻め出る時、または退く時はこの舟を利用しました。 舟も撤去できる仕組みで、防備の役目を果たしていました。 |
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全国統一を目指した信長は西進を図り、毛利方と対峙しました。 毛利方は備中境に境目七城(高松城、宮地山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城)を築き備えます。 織田軍の先鋒・秀吉は、天正10年に3万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略しました。 最後に攻めあぐんでいた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行しました。 籠城1ヵ月余を経て、城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。 秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主・清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させたのです。 本丸跡には、明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されています。 「現地案内を参照」 |
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