備前福岡城

岡山県岡山市竹原

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国道2号線、吉井川の東河川道側に曲り南に入ると、すぐ河川敷ゴルフクラブが見えます。

この河川敷のこんもりした森と川土手の下にある街並、そして川の西側にある小高い丘、この辺りが福岡城(ふくおか)になっています。
  
  
福岡の市は、鎌倉時代に開かれていた定期市の一つで、その名は都まできこえていました。

鎌倉中期の弘安元年(1278)、一遍上人がこの「福岡の市」で説法する様子を描いた「一遍上人絵伝」は、当時の風俗や暮らしぶりを知るうえで貴重なものだそうです。
 
  
福岡は一時国府が置かれたこともあり、この地に赴任した国司が都を偲んで、都風に街造りをしたともいわれています。

吉井川の流れが変わる前は、川の西に位置していました。 福岡庄が西の上道郡に属していたのはそのためだそうです。

これで、川を隔てて西側に本城と呼ばれる城跡が存在している意味がわかりました。

街中には「七つ井戸」と呼ばれる7つの井戸があります。(現在は3つ)
   
  
「妙興寺」

黒田氏は宇多源氏・佐々木氏の流れと伝えられ、黒田宗清は鎌倉末期に近江国伊香郡黒田村に住んでいました。

宗清から六代後・高政のときに、佐々木氏のもとで岡山にて戦っていたのですが、軍令に叛いて功名をたてようとして足利義植の怒りをかいました。

近江を追われた高政は流浪の末に、この備前国福岡郷に落ち着いたのです。 この地は刀鍛冶が多く目を病む者が多かったので「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬を造って売っていました。
  
  
宇喜多能家(砥石城主)は、天文三年(1534)に同じ浦上家の重臣である島村豊後守(高取山城主)の奇襲をうけて城を枕に自害しました。

子・興家と孫の当時六歳の八郎(のちの直家)は、この福岡千軒の豪商・阿部善定(ぜんてい)の元に身を寄せていました。

やがて興家は、善定の娘との間に二児(のちの春家と忠家)をもうけたのですが、天文五年(1536)この福岡の地で病死しました。

のちの岡山城主・宇喜多直家は少年時代をこの地で過ごしていたのです。
  
  
森の中には「福岡城跡」の石碑があるはずなのですが、河川敷はゴルフする人が楽しんでいるので、道からの見学です。

フロントで申し込めば見学できるのですが、また真冬の早朝に来て、ゆっくりと楽しみたいと思います。
  
  
標高22mの小丘陵で、河川敷きの方からそれらしき森が見えます。 入口にはお墓と小屋、天気がいいはずなのに光が遮蔽された道を入りました。

こちらの方が本城で、河川敷は出城ともいわれています。 上は広場で、戦いの最中には、刀を持った人達がひざまづいていたのです。
  
  
「天王社刀剣の森」

新田義貞に破れた尊氏が九州に落ちる途中、この地で再起を切願しました。 その願いがかなったお礼として、日向から持ち帰った松を寄進したと伝えられています。 この松は「日向松」と呼ばれています。

承元二年(1208)、後鳥羽上皇は番鍛冶として刀匠を12人選びました。その内7人がここ福岡の刀匠だったそうです。
  
  
応永十年(1403)、赤松氏が建てたもので、初代は赤松則興の子・日伝上人といわれています。

黄色く写っているのは、麦です。 これはほんの一部で、集落の周囲には、あたり一面に麦が光っています。 福岡は五月、静かな風景です。

水の如く流された戦いの地、今では静かな風に穂が揺れているのです。
 

   
嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏を滅亡にまで追い込んだ山名氏は、播磨・備前・美作を支配し、ここ備前国には一族・山名教之(のりゆき)が守護として勢力を持っていました。

応仁元年(1467)、京都で細川勝元と山名持豊(宗全)が対立し、その争いが全国にも波及する「応仁の乱」が起こりました。

山名教之は宗全を支援するために軍勢を率いて上洛し、福岡には守護代・小鴨大和守に守らせていました。

播磨国の奪回を願っていた赤松政則は、山名氏に対抗するために細川側につき、文明元年(1469)この福岡城を攻撃、小鴨大和守は美作に逃れ、福岡は赤松氏の手に落ちたのです。(第一次福岡合戦)

この合戦で、松田元隆は赤松氏に加勢し、「福岡千軒」攻略に功績があったため、恩賞として富山城を居城とし、文明十二年(1480)には子・松田元成が金川城に本拠を移し、富山城は元成の弟・元親が守りました。

その後、松田氏は主家の赤松氏や浦上氏と対立するまでに勢力を伸ばし始めたのです。 

福岡の地を流れる吉井川を挟んで、東の赤松・浦上連合軍と西の松田氏とのにらみ合いが始まり、ついに文明十五年(1483)、松田氏は山名俊豊の加勢を得て、赤松・浦上軍とこの福岡で戦うのです。(第二次福岡合戦)

合戦の最中、浦上氏は播磨の赤松政則に援軍を要請するのですが、政則は但馬・山名氏との戦いの最中で援軍が送れなかったことから、赤松氏と浦上氏は不仲になっていきました。 そして戦意を失った浦上則宗は城を捨ててしまうのです。 

この機に松田元成は一気に浦上則宗の三石城まで攻めたのですが、深追いをしすぎて、金川城へ引き返す途中に自害し、元親も死没してしまうのです。

そして、小説の結末を導いたのは、吉井川の「水」だったのです。  大永年間(1521〜28)、大洪水で川の流れが変わり、福岡城は流され廃城になりました。

最終章「如水」。
天正十九年(1591)、大洪水を最後に「福岡千軒」は水の流れの如く自然に幕を閉じ、「流離」は完結するのです。

『参考文献を参照』

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