大別当城

岡山県勝田郡奈義町高円

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中国自動車道「津山IC」から国道53号線を鳥取方面へ走ります。

奈義町に入り「那岐山菩提寺登山口」の標識を北へ曲がり、しばらく行くと「山の駅」、そして「蛇淵の滝」があります。

滝の駐車場から自動車道をそのまま300mほど入ると「大別当山展望台」の標識があります。

ここ標高584m(比高230m)の山頂には、大別当城(だいべっとう)があります。
   
   
「本丸跡の鬼子母神(きしもじん)」

大別当城は大見丈城(おおみじょう)ともいわれ、美作地方の代表的な山として知られる那岐山(標高1240m)の支脈で「奈義八景」の一つです。

この鬼子母神は子育ての神様だそうです。

  
この自動車道を左へ走ると登山口、そのまま行くと天然記念物 大銀杏(おおいちょう)で知られる菩提寺があります。
   
  
登山口から最初は急な階段、まもなくハイキング道です。 途中、道の横に曲輪跡や堀切がありますよ。

闇にまぎれた忍びの者、何回も顔を打ったんやろうね。 痛そう。

帰りに向こうから見て、何か黒い生き物がいるとびっくり。 そんな自分も情けない。 
 
 
展望台です。 さすが標高584mの眺めはすばらしい。

年配の方が二人、じっと遠くの山を見つめていたよ。

なにやら赤い実を採って口に入れていた。
 「子供の頃、よく食べたね」

杖をなでながら、また遠くを見つめていた。  
 
 
本丸には四角い石積みがあります。

医王山城でメモリを失くして、ここは2回目。 どこに何があるかは完璧だよ。

二人、まだ遠くを見つめているよ。 子供の頃を語っているのかな。 
 
 
「木葉の陽炎」

菅原道真の子孫を名乗る男が菩提寺で女と出会い、太郎丸という名の男児をもうけました。

女は乳をやるときだけは部屋をのぞかぬように約束したのに、男は見てしまいました。 そこには大蛇がいたのです。

大蛇は約束を破った恨みで、八巻山に消えてしまいました。 男は大蛇と再会し、太郎が乳をほしがると、大蛇は五色の珠を差し出し滝の淵に消えてしまいました。 
 
 
「蛇淵の滝へ」

太郎は五色珠の霊力でぐんぐん成長し、雲も突き抜けるほどの巨人になり、そして三歩で京まで行けたので「三歩太郎」と呼ばれたのです。 
 
 
「日本原高原の山」

登山口から西に見えた山です。

ズボンのスネにツギをあて、ポケットに「どんぐり」いっぱい入れて遊んだ幼き頃。

いつかはどこかの城跡で、遠く昔を見つめる自分があるだろうか。 
 
 
美作管家の始祖は、菅原道真から七代目・菅原知頼とされ、その曾孫・仲頼がここ大別当城の城主でした。

仲頼の三男・満佐は、この地方に伝わる「三穂太郎」伝説の主人公で、その七人の子が有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見の美作管家七流に分かれました。

そして有元忠勝が大別当城主、広戸佐友が矢櫃城主、植月公興が宮山城主、原田忠門が稲荷山城主などになっているのです。

元弘三年(1333)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵、しかし失敗し隠岐に流されました。 この時、播磨の赤松円心が苔縄城(赤穂郡上郡町)で兵を挙げ京を攻めたのです。

有元佐弘は弟佐光・佐吉をはじめ菅家一族と参戦し、幕府の北条軍と京都の猪隈で戦うのですが、有元三兄弟、福光・原田らは討ち死にをするのです。

隠岐を脱出し京に帰った後醍醐天皇は「建武の新政」をうち立てたものの、足利尊氏の離反によって崩壊し、天皇方と尊氏とは敵対するようになりました。 そして赤松円心も尊氏と結び、これに管家党も従うのです。

尊氏が天皇方に追われ九州に落ちた時、新田義貞は尊氏の巻き返しに備えて中国平定に出陣し、ここ美作には新田氏の部将・江田兵部大輔が大別当城の管家党を攻めました。

しかし新田軍の撤退により有元氏は回復し、再び有元佐顕が入るのです。

その頃、美作では赤松氏と山名氏の間で争いが幾度も行われていました。

康安元年(1361)、尊氏と子で弟直義の養子になった直冬との戦い「観応の擾乱(じょうらん)」で直義方についた山名時氏は、山陰に攻め込み、美作の赤松氏に属していた篠向城、小原城、大野城、林野城、妙見城など次々と攻め、この大別当城も落ちるのです。

のちの有元氏は、出雲の尼子氏が美作に侵攻してきた時にはこれと戦い、さらに三星城主・後藤勝基が備前の宇喜多氏に攻撃された時も援軍を送っています。

そして三星城が落城した後は、宇喜多氏の傘下に入り、関ケ原の戦いをへて、津山城主・森忠政が美作に入った頃、有元氏はこの一帯の大庄屋になったといわれています。

『参考文献を参照』

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