岡山県津山市中北上 | |
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中国自動車道、「院庄IC」で降りてから、国道181号線を西へ走ります。 久米町の西にある「岩屋谷口」バス停を北に入り、細い道を1.5kmほど行くと登山口の駐車場があります。 この西側の標高483m(比高310m)山頂には岩屋城(いわや)があります。 |
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岩屋城は美作の中心で、東は岩屋谷・西は明谷の谷・北は中国山地に囲まれた雄大な天然の要害で、数多くの屋敷跡と曲輪の複雑さに特徴があります。 「岩屋城保存会」の方が大変よく整備され、ほんとうにありがたいことです。 |
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国道からは細い道なので少し不安にもなりますが、駐車場・登山道・案内も良く整備されています。 登山口はもう少し奥にもありますが、今回は手前の登山口で杖を借りての登城です。 杖がある後ろの五輪塔を見るのも忘れずにね。 |
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「慈悲門寺跡」 登山口から「慈悲門寺下の砦跡」を見ながら、丸太の階段をかなり登り、ここで休憩です。 ここは平安時代に円珍が開いた「慈悲門寺跡」で、建物の礎石や備前焼の大きな甕(かめ)が見つかっています。 さあここから「本丸」目指します。 |
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今度は「慈悲門寺の上の砦」を見ながら、杉林の道をゆっくりと歩きます。 「三合目、あと700m」の標識、「えっ、まだ三合目」と思うほど若くはないよ。 今回はゆっくりとウォーキングだよ。 |
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「山王宮拝殿跡」 ここは、近江日吉神社(ひえ)の山王さま(山王大権現)を祀っています。 眺め良し、お茶を一杯。 「あと500m」の標識、ゆっくりが似合う城跡だよ。 |
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「龍神池」 山名教清の築城の時、山名氏の本拠である伯耆国赤松池にならって、この池に祭神を造ったそうです。 御殿に「登城記帳」があったので、筆ペンで記帳です。 相変わらず字は下手なのを再認識。 「大手門跡」を過ぎてたら「一挙に七合目へ」。 |
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覆いがしていたのですが、ちょっと取りました。 中を覗いて「なるほどね。」それでは元の様に覆いをしておきますね。 あと300m。 |
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標高483mの眺めは最高、左は津山市街、久米町の中心部、そして出雲街道から西へは勝山。 普段からストレスは無いけど、ほんとストレスが吹っ飛ぶよ。 |
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ここから、奥には「本丸」があります。 本丸の北側に「落とし雪隠(せっちん)」と呼ばれる垂直に近い断崖があります。 毛利軍による攻撃の時、決死隊32人を選び、風雨の夜に、ここをよじ登らせて、火を放ち落城させました。 決死隊を選ぶ時、大将と目を合わせないようにしそうだけど、選ばれても「高い場所は苦手」とは言えないし、困るよね。 |
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「二の丸へ」 登山口から標識通りに歩いているので迷うことはないよ。 でも一瞬、今どこを歩いているのか分からないよ。 地図を持って、しっかりと自分の目で確かめ考えながら歩いていないからね。 丁度、車の助手席に乗ってる感じ。 でも、この岩屋城は標識が無いと、「龍神池」ぐらいで不安になるぐらい壮大で複雑な造りになっています。 |
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かなり広い「二の丸」の平らな曲輪の北側に、大きな堀があります。 そこに「大堀切」の標識があるけど、そこからは堀には降りれないからね。 慌てなくても、少し先に歩くと堀切へ入る道があるよ。 |
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「てのくぼり竪堀」 幅5m、深さ2m、長さ100mの竪堀が12本並んでいます。 攻撃側の横移動を防御していた堀です。 一見「土の波」、こんなのが横にずらーっと並んでいるんだよ。 駒山城の丸い岩を転がしたら・・なんてことを考える人はいないと思うけど、何かしてみたくなるね。 でも岩は危ないから絶対に転がしてはだめだよ。 |
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やっと見れたよ。 まだ季節は真っ赤な秋だね。 毎年9月下旬〜10月上旬に、「風雲岩屋城」と題して、ウォークラリー大会が開催されています。 地元の方の努力、そして「岩屋城」の想いは夢となって、次の世代に受け継がれていくよね。 |
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「タイムカプセル埋没碑」 発掘日は2020年1月と書かれています。 何を埋めているのかな。 わかるのは、あと17年先、えー還暦を過ぎてるよ。 |
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岩屋城は嘉吉元年(1441)、美作の国の守護職に任じられた山名教清が本城として築いたものです。 その後、応仁の戦乱中、赤松政則によって落城して赤松氏の配下となりました。 永正十七年(1520)、浦上村宗が主家・赤松に叛き、岩屋城を奪って、その将・中村大和守則久をこの城においたのですが、天文十三年(1544)、山陰から美作方面を席捲した尼子経久の軍門に降ります。 その後、宇喜多直家が攻略し、天正元年(1573)に浜口淡路守家職を城主としてこの城におきました。 天正九年(1581)、毛利氏は葛下城主・中村大炊介頼宗に命じ、岩屋城を攻略させ中村頼宗を城主とします。 天正十年(1582)、備中高松水攻めの際、毛利方と羽柴秀吉との講和条約により高梁川を境として西は毛利、東は宇喜多領となりました。 毛利方にとっては屈辱的なこの条件には承服できないと、城主・中村頼宗を始めとして、美作一円の毛利方の諸城は開城を拒みました。 宇喜多方は武力による接収もやむ得ないと大軍で岩屋城を包囲して攻撃したが、天険を利用し、よく防戦したので、武力接収も月日を重ねも容易に成功せず将兵は戦かいに捲みます。 作州一円、時の足利将軍義昭は調停に乗り出し、同十三年十二月調停が成立して事態は収拾され、岩屋城は開城して、宇喜多秀家の手に帰し、宿将長船中守が在番の城主となすのです。 その後、天正十八年(1590)八月、野火によって城楼焼失し廃城となったもので築城から廃城まで149年間幾多の変遷を経て、岩屋城はここにあったのです。 「現地案内を参照」 |
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