岡山県備前市香登西 | |
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山陽自動車道、「備前IC]で降りて、そのまま国道2号線を西へ走ります。 吉井川の手前にある「香登交差点」を北に入り、1kmほど北西の城山墓地を捜します。 ここ城山池の東には標高292m(比高250m)城山の山頂に香登城(かがと)があります。 |
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城山池にはこの碑があり、その右側が登山口です。 お城の碑ではないと思うのですが、「城山・・」と銘が刻んでました。 |
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この香登城への登山道は、この送電線の鉄塔が目印です。 いつもの播磨・苔縄城でクイが刺さったままの運動靴、またヒモがほどけているよ。 今日も何かありそうな気がするよ。 |
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送電線の鉄塔が目印と言いながら、道は東の山へと行くみたいだから、途中で香登城の山頂は通り過ぎてしまうよ。 道はないけど、直接頂上を目指して岩場を登りました。 |
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右下が登山口の池だよ。 上の岩場に這いつくばっての写真です。 かなり急な勾配で、足元の岩肌がはがれ易いから、ここは危ないよ。 |
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あと少しで山頂、木につかまりながら必死です。 寒い時は手が小枝にあたると、すぐにかすり傷となるので、今日は軍手を着けました。 |
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とにかく平坦な場所に出ました。 ここは二の丸、それとも三の丸かな。 また反省です。 下調べもせず、地図も持たずに来てしまいました。 山の地図と磁石と筆記用具を持って、地図に書き込んでいけばいいのにね。 でも山の地図はどうやって手に入れたらいいのかな、普通のマップでは山まで詳しく分からないよね。 |
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もう一段高くなったところが山頂です。 山頂だから本丸跡と思います。 かなり広いよ、でもさすがにメジャーで計測はできないし、広さはどうやったら簡単に測れるのかな。 歩幅かな、でも真っ直ぐに歩けないし、難しいよね。 |
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本丸から北側へは尾根道があり、降りたすぐの所にあります。 写真では分かりにくいね。 この香登城から北へ2kmほど行くと、赤磐郡の熊山があって、そこには「児島高徳の挙兵の跡」があるよ。 久ぶりの児島高徳の登場だよ、必ず行くね。 |
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本丸の東側で見つけました。(新幹線の大坂方面) 草と土に埋もれているけど、なんとか分かります。 「ここに石垣あり」と地図に書きたいよね。 |
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新幹線が見えるよ。 岡山のお城を訪れて、はや1年。 何回通っただろうか、二年前なら、備前まで来ると旅行だったけど、最近は通い道になってきたよ。 |
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ジャンプ、つかんでしまったよ、靴のヒモはこれだったんだね。 手を抜いた軍手が木にひっついてたよ。 最初の送電塔から、道なりに東から回り込むと、周回するように素直に本丸に行けるからね。 帰りはその道を通ったよ。 地図に見た物や感じた事を書きたいけど、書いた瞬間、感じたことが心から消えそうな気がするよ。 城跡は心の中に書き込む方が似合っているのかな。 |
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応仁の乱後の文明13年(1481)、東軍に属した赤松政則は侍所の所司に任ぜられ、管領・細川勝元の支援のもとで赤松家の再興を果たしました。 嘉吉の乱で山名氏が支配していた播磨・備前・美作を取り戻し、播磨・飾磨郡の置塩城を本拠としました。 赤松家再興に功績があった家臣・浦上則宗は守護代となり、その子・宗助が備前三石城を居城としました。 この浦上宗助の子には村宗と宗久がいます。 村宗が三石城を受け継ぎ、そして宗久がこの香登城に入ります。 置塩城主二代目の赤松義村は、勢力を拡大してきた家臣の浦上村宗に戦いを挑み、まずは香登城主・浦上宗久を抱き込もうとしました。 しかし浦上氏の家臣・宇喜多能家の知るところとなり、宗久は兄・村宗に攻撃され備中へと逃げました。 そして、赤松義村も敗れて播磨室津城に幽閉され殺害されるのです。 その後、宇喜多能家が香登城に在城しましたが、浦上村宗の子・宗景が天神山城を居城とし、備前の東半分を支配した頃、和気郡で勢力を持った高取左衛門が城主となりました。 ここで、宇喜多能家とは浦上則宗・宗助・村宗三代に仕え、砥石城で隠居生活を送っていたところ高取山城主・島村備後守に夜襲をかけられ没する人物です。 もっと簡単に言えば宇喜多直家の祖父です。 のち宇喜多直家は主君・浦上宗景に叛旗を翻し、この香登城も直家の手に落ち、高取氏は帰農、そして城も廃城となるのです。 『参考文献を参照』 |
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