経山城

岡山県総社市黒尾

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岡山自動車道、「岡山総社IC]で降り、国道180号線を西へ走ります。 「国分寺口交差点」を北へ曲がり、2kmほど行くと砂川公園があります。

この公園の奥からの山道は鬼ノ城(きの)へと続いています。 その途中には、吉備高原の南端に位置する標高372mの山頂に経山城(きょうやま)があります。
   
   
ここは途中の石柱です。

総社には、「吉備津神社」をはじめ沢山の見所があります。
見るべきところが多いから、なかなか西や北へは進めないよね。
 
  
経山城登山口から鬼ノ城方向約300mほどの道路横に有る鬼の釜。
 
千数百年前、温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮から渡来し、鬼ノ城に居住しました。

「桃太郎伝説」や「温羅伝説」では、温羅がさらってきた人間や動物を煮るときに使った釜と伝えられています。

でも、百済の技術集団として製鉄技術を日本に伝授したうちの一つだともいわれているのです。
   
  
前の道を通り過ぎ、「鬼の釜」から少し上に車を置いて、走って下ってきました。

しかし、富山城でのダッシュがまだ堪えてるよ。

また六甲縦走の話だけど、最後の降りは後ろ向きに歩くらしいよ。

その方がヒザが楽だって、聞いた話だよ。 
  
  
かすかな水の流れる音、久しぶりにゆっくりと歩けるね。

木々の中で、ゴソゴソと何かいるよ。 細い木がパキパキ折れる音がする。

何かわからないけど見ないふりして、やっぱり走って登りました。  
  
  
着きました、城跡の北の端です。
この経山城は研究に欠かせない特徴があるらしいよ。

「回字型」単郭の変形と表現されるらしい。

「回」の字に似ているのかな、そういえば「回」の字のように歩いたよ。 山城の研究は難しい話やね。

でも、やってみたいよね。 
  
  
上の写真の左側に有ります。 やっぱりいいよね、石垣は。

でも、この石垣の形と色艶は似てるね、鬼ノ城の石垣と。

鬼ノ城はここより千年も前の城だから、その石を利用しない手はないよね。

でも何故、鬼ノ城を修繕して、そこにお城を建てなかったのだろう。
   
  
これが鬼ノ城で、同じぐらいの高さ。 この日も鬼ノ城の方へは、沢山の人が行っていました。

この鬼ノ城から奥へ行くと「岩屋寺」があって、そこには「鬼の差し上げ岩」などの巨岩があるけど、行くのを忘れたよ。

地図にはメモしておいたのに、いつも城から降りたら、ほっとして何事も無かったように帰ってしまうんだよね。
  
  
奥が北の端、石垣があったところです。

この郭は、もう一回り大きな周回路があるよ。 見ておいてね。
  
  
この主垣の南側の一段下がったところにも石積みがあります。

もう寒い時期なのに、ススキがいっぱい。 どうも尼子山城からススキが気になってるよ。

その理由は、花言葉にあるかも。 「心が通じる」だって。 
  
  
いつも城跡からの帰りに、振り返っては「たぶん一生来ることは無いんだろうね」と思ってしまう。

2003年の城跡探索も、あと少しだね。

大都会の輝く光は、多くの人達を同じ気持ちにさせてくれている。

一人で見つめる風景は、ただそれだけで十分輝いているんだよ。 
  

  
永正6年(1509)、中島政行は、室町幕府十代将軍・足利義稙の命を受け、ここ備中国の経山城を本拠にしました。 その後、氏行・輝行・元行と四代にわたって居城しています。

天文12年(1543)、周防国の大内義隆が出雲の富田城を攻めた時、備中の諸将もこれに参加した為、備中の城はわづかな留守兵で守られていました。

この機会を逃さず、播磨の置塩城主・赤松晴政は、備前の天神山城主・浦上宗景と宇喜多興家(直家の父)に、経山城を攻撃目標にさせました。

経山城では中島輝行とその妻子や一族が籠城し守っていましたが、将軍足利義晴から赤松晴政のもとに、細川次郎と三好長慶を追伐する奉書が届いたため、赤松勢は撤退するのです。

元亀2年(1571)、今度は毛利氏が九州へ出陣した時に、出雲の尼子勝久が経山城を包囲するのです。

城は二百騎しかいなかったので、木々の間に数百本の紙の旗や、人形を立てて大軍に見せかけました。 これを見た尼子側は兵糧攻めの作戦に出て、城を遠巻きにしていました。

激しい風と雨の夜、中島元行は配下の部将と、都窪郡清音村の軽部にあった敵方の陣へ忍び込み火をかけ、不意をくらった尼子勢は、北房郡の佐井田城へと退却するのです。

天正10年(1582)、秀吉の備中高松城水攻めの時、元行は清水宗治と共に備中高松城に籠城、毛利氏と羽柴氏の和議が成立すると、この経山城は宇喜多氏に与えられるのです。

『参考文献を参照』

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