岡山県美作市入田 | |
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国道179号線で「湯郷温泉」で有名な美作町(みまさか)に入ります。 吉野川を渡り西岸の374号線を北へ1km、そこには頂上が三つに分かれた山(標高233m)に三星城(みつぼし)があります。 めずらしく晴れた2003年6月に、太平記の時代から続いた美作戦記は迷いと覚悟を語ってくれる城跡なのです。 |
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「後藤勝基の墓といわれる五輪塔」 南北朝の太平記から守ってきた後藤氏、最後の城主・勝基は攻め落とされるんだ。 |
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この赤い鳥居は登山口で、少し入ると右に「後藤勝基の五輪塔」があるよ。 その裏手に登れそうな道があるのですが、一瞬の迷いもありました。 10mも入ると草木が道を塞いでいるのです。 ここは覚悟を決め登ることにしたよ。 |
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道はわかるのですが、木や草とクモの巣がいっぱい。 少し道から外れたら、立っては歩けない。 地べたにはいつくばって、木の枝に絡まっては体をくねらせながら少しづつ前へと進みます。 |
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最初は三つのうちの真ん中の山頂です。 周囲が平らに削られ、中心が見張り台となっていた感じ、左が苔の塊みたいな見張り台だよ。 |
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この辺りの道や岩は苔がいっぱいです。 4百年分の苔、なるべく踏まないように歩いたのですが、滑ってズボンは苔だらけ、シャツは汗、全身クモの巣だよ。 降りて、きれいにして、コンビニで焼きソバパンを買いました。 「どこに行って来たの」と不思議そうに店の人が言ってたよ。 |
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三つのうちの一番東の見張り台です。 いつも行っている城は、登山道とか山頂が整備された城跡なのですが、こうして自然の姿で残していくことも、一つの保存の方法なのかも。 |
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六月にもなると木々が茂り、どうにか風景が見れたのはこの場所です。 美作も宮本武蔵の生誕地の一つと言われ、他の行きたかったところは 「笠懸の森(かさかけ)」 御醍醐天皇が隠岐に流される時に休息されたところ。 「美作町歴史資料館」 ルネッサンス様式の建物。 など多数、来る前は完璧なルートと計画を立てていたのに、外観ボロボロ、力も果ててしまい行けなかったよ。 |
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「大手口にある稲荷社」 この裏手からも登山ができます。 見たところ、なんとなくこちらの方がよかったような気もしますが、確認するのは数年後かな。 |
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「三星城の絵図」 三星城の全体のイメージがわかりにくいので、登山口の案内にあった絵図を載せておきます。 「三星城」のところに「五輪塔」があります。実際はもっと下の方ですが。 旗が立ってる三つの山頂まで行ってきたんだよ。 井戸もあったんだね、落ちなくてよかったです。 |
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今を去る約820年の昔、応保年間(1160)、土豪渡辺氏の居館として、この地に妙見城が誕生したと伝えられている。 のち天下は足利幕府の下、1336年地頭職として後藤氏が入り、延元4年(1339)、妙見城は後藤一族の居城となりました。 以後二百余年、幾多地方豪族に依る攻防盛衰の乱世が続き、三星城主後藤一族も風雲雷鳴の中に身をゆだねつつ、勢力を徐々に拡大、やがて後藤左衛門尉勝基の世代を迎えます。 当時の天下は朝廷、幕府共に力無く、まさに武士の社会、戦に勝った者のみが生きのびる戦国下剋上の時代でした。 山陰に尼子、西国の毛利、播磨の赤松、織田も又、京に上らんと機をうかがっていました。 永禄三年(1561)、勝基二十一才の時、備前の宇喜多直家の息女を妻に迎え、これより十数年波乱の朝夜を戦い抜いた青年城主勝基が隆盛の一時代と言え、遂に全東作を制覇し京に上った信長とも交りつつ郷領を固めていきました。 然し、運命の皮肉はやがて東作の役えと嵐を呼ぶ事になるのです。 天正五年頃から頻発する隣接する備前領との領界争いは遂に姻戚関係にあり乍ら不和を生み、備前国宇喜多と美作国後藤の対決はさけられぬ日を招きます。 天正七年(1579)、年明けと共に両雄決戦の火ぶたは切られ、作州全土は戦火に巻かれました。 宇喜多軍は四月初頭美作南部の前線諸城を陥して北上位田、湯郷を経て四月末対岸の倉敷城を破り、旬日に渡る攻防激戦の末、五月二日萬余に及ぶ宇喜多勢人馬の総攻撃に精鋭死守の甲斐むなしく放火も重なり、さしもの堅城要塞を誇った三星城を落城の運命が迫ります。 勝基は深夜、城を退却、長内村大庵寺にて三日早朝武運つたなく四十二才の命を絶つのです。 『現地案内を参照』 |
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