岡山県倉敷市児島塩生 | |
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瀬戸自動車道、「水島IC]で降ります。 県道62号線を西へ「広江1交差点」から国道430を南へ走ります。 宇野津交差点から300mほど南の信号を西へ入り、集落の道を進むと「本太城主碑道」と書かれた道標があります。 この標高42mの山には本太城(もとぶと)があります。 |
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この城跡も2回来たよ、国道430号線から入る道は難しいね。 2回目も凝視しながら、ゆっくり走っていたのに通り過ぎてしまったよ。 |
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なんとか国道から、集落の道に入れました。 この碑があるところから「天満宮」方向へ歩きます。 でも少し右手に「井戸」がある道もあるらしいよ。 |
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少し家並を通り、天満宮への階段を登ります。 周りの畑では、年配の方が一人、二人と土をさわっているよ。 |
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神社手前を右周りに行くと、石垣があります。 実際の城跡はもう少し西側の本太港に突き出た「天神ケ鼻」にあったともいわれているよ。 とりあえず、ここから上へと登りました。 |
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平らな跡があるね、何かあったと感じるけど。 低い丘だけど、夏場だとなかなか入れないと思うよ。 今だよ、見てみてね。 |
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「天満宮の花」 西側から「水島工業地帯」から大きな音が聞こえます。 日本の成長を支えている音。 それにしても工場地帯の風景は久々に見たけど、ものすごいものです。 |
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一番上の写真の碑がある所です。 1回目はこれしか見なかったけど、何だったのかな。 今では音と光の携帯電話、パソコンに車。 みんな完成された、きれいな物ばかり、でもそれを支える人と工場は見てないんだよね。 城跡もいいけど、自分の目で今の日本を支えている地域と働く人をしっかりと見ておきたいね。 ここでも、畑で年配の方が作業されてたよ。 |
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永禄・元亀年間(1558-73)に能勢修理がこの本太城に入りました。 その頃、備前の沼城主・宇喜多直家と備中松山城主・三村家親が勢力争いを始めます。 直家は西への備えに明禅寺城を築き、家親が美作侵攻を図った時に刺客によって鉄砲で暗殺したのです。 永禄10年(1567)、家親の子・元親は仇を討つため明禅寺城を落としたのですが、これを取り戻すために直家の軍勢が迫ってきたので、猿掛城主・三村(庄)元祐、幸山城主・石川久智や佐井田城主・植木秀長らの援軍を求めました。 しかし、直家は明禅寺城を攻め戻し、逆に三村勢の大軍を迎えて鉄砲で討ちまくり、ついに三村勢を敗走させました。 この時、三村元祐を討ち取ったのが本太城主の能勢修理と「備前軍記」は語っています。(実際は元祐は4年後の佐井田城合戦で討死) 元亀2年(1571)、四国香川県の香西宗心は瀬戸の塩飽水軍(香西水軍)として、玉野市日比へ上陸し、日比城主・四宮行清と力を合わせて、本太城へ攻撃をかけました。 ついに東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨となり、能勢氏は逆襲し香西宗心は打ちとられ、四宮氏も敗走するのです。 (本太城合戦) 『参考文献を参照』 |
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