岡山県瀬戸内市邑久町虫明 | |
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岡山ブルーライン「虫明IC」を降りて224号線を東へ走ります。 まもなく虫明の街、この地が虫明陣屋(むしあけ)の跡です。 2008年12月、久しぶりの岡山。 なかなか山城へは行けないよ。 |
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裳掛小学校のホームページ、歴史マップがすごく役に立つよ。 南北に川が流れる道、東側に「小学校跡地の碑」、西側には伊木氏の茶屋跡碑がある。 北の山にはお城があるみたい、虫明城だね。 でも、さっそくとは行けない感じだよ。 |
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「伊木氏のお墓」 少し北、虫明城近くまで来ると、道沿いに案内がある。 3代・忠貞、11代・忠順そして12代・忠直のお墓があるよ。 初代・忠次は三木市本要寺、2代・忠繁は三木市正入寺にあるんだね。 さっそく行かなくては、近くにあったんだよ。 |
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伊木氏初代忠次は、初弥香川長兵衛と言い、天文十二年(1543)、尾張国清州に生れ、初め織田氏に、後に池田氏に仕えました。 永禄四年(1561)、美濃国・伊木山城攻略の功により、信長より姓を賜り、以後伊木と称します。 天正十八年(1590)、筆頭家老職に任ぜられ尾張国田原城主(一万七千石)となりました。 慶長六年(1601)、池田輝政が関ヶ原の合戦の功により姫路城主となり、主君に従って入城します。 慶長八年(1603)、主君より橘姓を賜り、豊後守に任ぜられ伊木豊後守忠次となり、三木城主(三万七千石)となります。 このように初代にして確固たる地位を築いていました。 二代忠繁のとき、弟幸雄に四千石を与え三万三千石となり、三代忠貞のとき、元和三年(1617)、池田光政が鳥取に国替えとなり、倉吉に移ります。 寛永九年(1632)、再び主君の国替えにより岡山に移り、邑久・上道・和気・浅口郡の地を領しています。 寛永十六年(1639)、その知行地であり、海上交通の要路であった虫明に陣屋を設け、家老職以下約五十数名の家臣を駐在させ、明治に至るまでの約二百三十年間、虫明は伊木氏の陣屋町となりました。 十四代忠澄のとき、幕末の変動期を迎え、尊王派・佐幕派と混迷する藩論を尊王に導き難局を乗り切りました。 また、忠澄はお庭窒として今日ある虫明焼の基礎を築き、明治となり、版籍奉還は大参事となるが、まもなく官を辞して、三猿斎と名のり、茶の湯さんまいの風流生活に入るのです。 『現地案内を参照』 |
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