沼 城

岡山県岡山市沼

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国道2号線で吉井川を越えてから250号線に入ります。

そこから3kmほど西へ行くと、北側に浮田小学校が見えるので、「亀山城」と標識がある交差点を北側に入ると、目前には標高40mほどの丘陵があります。

この丘陵には「弁天神社」が祀られ、そして宇喜多直家が壮年期を過ごした沼城(ぬま)があります。
   
   
絶世の美女お福は、宇喜多家の亀山城に嫁いできました。

直家38歳、七年を経て生まれた男の子が秀家なのです。

秀家は秀吉の養女、前田利家の娘(濠姫)を妻に迎え、豊臣家の五大老として破格の出世をしました。

関ヶ原の戦いでは「副総帥」として参戦するのですが、徳川方に敗れ、のち八丈島へ流刑となったのです。
 
  
二つの丘陵を利用した構造で、この神社の建つ東の丘陵には「本丸」と「ニの丸」があります。

西の丘陵は「出丸」を構え、総延450mの連郭・輪郭折衷の構造でした。
 
   
「赦免花伝説」の説明がありましたので紹介します。

関ヶ原の戦いに敗れ八丈島に流された秀家公の菩提寺・宗福寺に二株の蘇鉄(そてつ)があります。

この花が咲いた時に、なぜか赦免があったといわれています。

文政に69人、天保に41人、弘化に64人、嘉永に24人の流人が赦免されたと伝わっています。
   

   
永禄2年(1559)正月、年賀に参上した宇喜多直家は、主君・浦上宗景から、亀山城主(沼城)・中山信正に謀叛の風聞があるので、誅罰せよとの命令を受けて愕然としました。

中山信正は、妻・奈美の実の父で、自分が舅を成敗せねばならぬとは、世はまさに戦国時代、直家は断腸の思いで引き受けたのです。

直家は、民情視察と称して農耕地を巡り、さらに馬を駆けらせて山野に入り、鹿や猪を追う日々が多くなりました。 亀山城の近くの茶園畑に小さな茶亭も造作して、狩猟の獲物で舅を接待する回数も重なってきました。

永禄2年の晩秋、直家は、亀山城中で酒宴を開くので、泊りがけで遊びに来られたしと、中山信正より招待を受けました。

酒宴もようやく終わりに近づき信正が酔って寝所に入ろうとした時、庭に抜刀して斬り伏せ、城外に待たせた家臣と共に闇の声を挙げて乱入し亀山城を制したのです。

実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、戦国の女らしく二人の女児を残して自害するのです。

戦国時代は弱肉強食の時代である。 直家は、主君浦上宗影より亀山城を賜り、新庄山城から移って以後14年間、直家壮年時代の居城としました。

永禄9年(1566)、備前の国津高郡下土井村にいた絶世の美女お福は、宇喜多家から差し向けられた玉の輿に乗って、亀山城へ嫁いできました。

ときに直家38才の早春である。 歳月は経て、天正元年14日城中で玉のような男の子が生まれました。

直家はその子に自分の幼名「八郎」を与え、宇喜多の家が八の字のように繁栄することを神に祈りました。

備前、美作57万4千石の大名そして豊臣家の五大老と出世し、関ヶ原の戦いでは衆寡敵せず、徳川方に敗れ、八丈島へ流刑になった悲運の武将宇喜多秀家の誕生です。

この年の秋、直家父子は岡山城へ移りました。

天正10年(1582)6月4日、備中高松城攻略に成功した秀吉は、一刻も早く2万の大軍を京へかえさなければならないと心はやっていました。

梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、吉井川は氾濫し、大軍の足を止めました。 秀吉は天を恨みながらも、亀山城に旅装を解きました。

そこにはかいがいしく世話をするお福の姿がありました。 秀吉はお福の世話で 鋭気を養いながらも、逆臣光秀を討つ軍議を怠らなかったのです。

東の空に朝日が輝いたのは八日でした。 秀吉の突進が始まり、亀山城から姫路まで二十一里、わずか一昼夜で駆け抜けた鬼神のような進撃でした。

天正10年6月13日、亡君主信長の弔い合戦で勝利した秀吉の中国大返し外伝でした。

『現地案内を参照』

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