奥塩田茶臼山城

岡山県和気郡和気町奥塩田

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山陽自動車道、「和気IC」から国道374号線を吉井川に沿って北上し、天神山城を過ぎて更に北へと走ります。

佐伯町の塩田から東の90号線を2kmほどいくと、標高142mの山頂には奥塩田茶臼山城(おくしおたちゃうすやま)があります。
   
   
北側の神田池から見たお城、岡山からの帰りはこの山合いの道を通っている。

道は兵庫の上郡へとつながり、そこは赤松氏の本拠地白旗城や苔縄城がある所だよ。
 
  
麓の公民館から細いけど、自動車道が途中まで付いているよ。

一度登ったけど、止める所がなくて下に降りてきたよ。

この辺りは「中国自然歩道」になっていて、ここに大芦高原(おおあし)の道標があったけど、近いのかな。
 
  
もう少し北にある福城というところへ行ったけど、山頂付近でタイヤ幅ぐらいの道、横は急な崖。

心臓パクパクのバック、数十回の切り返しで降りてきたよ。

お城は歩いて登る、けっして無理はしないと思ってるとすぐ尾根に着きました。

向こう側にはお墓、たぶんその先に堀切があって、下には神田池が見えると思うけど。 
  
  
堀切から反対側へ少し登ると本丸。 

ここではどんな物語があったのか分からないけど、広いところにさりげなく城跡の石碑がある、木で隠れているね。 
  
  
きれいな風景だよ。

雑誌やホームページで紹介される行楽地や山は紅葉・滝・雲海など本当にきれいと思う。

でも最近、さりげない風景がきれいと思えるようになったよね。 
   

  
この茶臼山城は播磨・備前・美作を領有していた赤松氏の家臣・橋本与三兵衛が城主です。

あまり詳しいことは分からないので、このページを借りて備前の赤松氏について書きます。

室町時代の明徳二年(1392)、明徳の乱で山名義理を倒した赤松義則が備前・美作の守護になりました。

この山名義理(よしただ)は山名時氏の二男で、赤松義則は円心-則祐-義則-満祐と続いた人物です。

嘉吉元年(1441)、赤松満祐が起こした嘉吉の乱後、備前・美作の多くの国人らは反赤松氏にまわり、播磨の城山城に籠もった赤松一族は山名宗全によって滅亡するのです。

その後、備前には山名教之、美作に山名教清が守護となり、備中では細川氏が守護になりました。

応仁元年(1467)、応仁の乱では東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が京都で争い、ここ岡山でも備前美作・山名氏と備中・細川氏が対抗していました。

この時、備前の山名教之は京都に居たため、備前福岡城は守護代・小鴨氏が守っていたところを、赤松政則が管氏・鹿田氏・松田氏・難波氏らと福岡城を攻め小鴨氏を美作に退け備前を取り戻しました。(第一回福岡合戦)

つづけて美作の鴛淵山(勝田郡)で赤松氏の被官・難波氏が山名勢を攻め、美作も回復したのです。

文明十五年(1483)、第二回福岡合戦が起こり、金川城主・松田元成が備後・山名俊豊の援護を受けて福岡城の赤松政則と守護代・浦上則宗を攻撃しました。

明徳六年(1395)の龍の口合戦、文亀二年(1502)の矢津合戦や牧石合戦で浦上氏と松田氏が対立する中、浦上氏は主家・赤松氏から離れていくのです。

永正十六年(1519)、ついに三石城合戦で浦上村宗が置塩城主・赤松義村を破りました。

こうして備前の赤松氏は消え、吉井川を挟んで東に浦上氏、西に松田氏、そして南には宇喜多直家が現れてくるのです。

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