岡山県久米郡中央町打穴中 | |
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中国自動車道、「院庄IC」から国道181号線を少し西へと走ります。 吉井川を渡り70号線を南へ5kmほど行くと「坂口の三叉路」、その手前の西側に「城址の碑」があります。 この碑の背後には標高200m(比高50m)の山頂に、鬼山城(おにやま)があります。 |
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ここは大きな駐車場、こんなにりっぱな「碑」がある、びっくりしました。 この右側に映っている山が鬼山城、ここから山に向かって歩くよ。 2004年9月の初め、人は「今年は台風が多い」と挨拶を交わす。 城址に残る傷跡は草木の強さで元に戻るけど、一番戻れない人間がそれを見て嘆いているんだよ。 |
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山の北側から東側を周回するように「打穴川」が取り巻いています。 この橋を渡った所に「鬼山城址 登山口」の案内があるよ。 |
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登山口の所に直径2mぐらいの大きな丸いドーナツみたいな土盛がある。 丹波の久下城で見た物と同じ形をしてたけど、 これは炭焼きをする囲いらしい。 比高50m、道も快適。 時間にして5分ぐらいで山頂だよ。 |
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と思っていたら、先週の台風で木が倒れ道をふさいでる。 今回の台風は久しぶりに大きかったよね。 ここは運動会の障害物の要領で一本目をクリア、もうダメ。 身体をどちらに動かしても枝が刺さる。 それに木が30本ぐらい倒れているよ。 |
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一旦降りて橋から西側へ周り、家が数件ある所から登りました。 家の裏手にはお墓、「玉木家(玉置)」の字が沢山あるよ。 城主に関係ある人のお墓なんだね。 そこからきれいな道がついてた、とにかく快適、よく整備されているね。 |
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山頂に着きました、左側(北側)に大きな曲輪。 その手前にある尼子塚だよ。 不思議なものです。 昔の人はこうして石に自分を残しているのに、何でも手に入る現在人は、何を残せばいいのだろう。 「管理、効率化」こんな言葉で毎日が、そして自然に流されて、災害になれば石にも残せないよ。 |
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尼子塚から引き返し、反対の南側へ少し登ると高さ50cm、20mぐらいの長さかな。 全体の城跡図が分かりにくいけど、きっと案内図が作られると思うよ。 そんな意気込みを感じてくるよ。 |
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土塁から更に南へ行くと最初に登ろうとした道がある。 その道の下を見ると倒れた木々でふさがれていた、見つめていると必死に登ってくる自分が這い出てきそう。 |
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下の写真の東側だよ。 かろうじて石積が見える、多くの石は川の氾濫を防ぐために使われたらしい。 もっと探そうとしたけど、倒れた木で歩けない状態だった。 |
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台風で根こそぎ木が倒れている、これはほんの一部だよ。 小学の頃、大きな台風が来て、一家揃って玄関の戸を押さえていた、すぐに停電になるしね。 今回の台風で何十年ぶりに停電になった、6時間ぐらいかな。 クーラはきかないし、冷蔵庫も温かくなるし。 それに暗闇で懐中電灯の電池を探し回ったことは、反省しなければならない。 |
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稲も全て倒れてる、自然の力はすごいよね。 一昔前なら、稲の実が沢山落ちたり、稲刈りも大変だった思う、今は品種改良と機械化のおかげでほぼ大丈夫。 「今年は台風が多い、異常気象だね」と挨拶を交わす。 9月季節の変わる頃には、ちゃんと咲くよ、昔も今も彼岸花は。 |
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鬼山城は備前・宇喜多直家の娘婿であった江原親次の従兄弟・玉置玄蕃守が築城しました。 1500年の初め頃、美作は津山市を挟んで東に英田郡の三星城主・後藤氏、西には真庭郡の高田城主・三浦氏が守護山名氏に代わって勢力を拡大していきました。 天文元年(1532)、ところが島根県の出雲から尼子経久が美作へ侵攻し、医王山城・細尾城・稲荷山城・神楽尾城が落とされ、美作の国人達は尼子氏に属したのです。 天文13年(1544)、再び尼子経久の孫・晴久が美作を攻撃し、岩屋城・小田草城・高田城も落とされ、さらに南の備前への侵攻を図ろうとしましたが、備前の天神山城主・浦上宗景がこれを防いでいます。 (作州合戦) 一方、備中では毛利氏と手を結んだ鶴首城主・三村家親が東へ進み、備中松山城を奪って備前や美作へ攻撃をしてきたのです。 永禄9年(1566)、これに対して、浦上宗景の家臣であった宇喜多直家が三村家親を暗殺し、逆に直家自身も備中・美作へと勢力を伸ばしていきました。 こうして美作は出雲の尼子氏、安芸の毛利氏、備前の宇喜多氏が争う地となっていくのです。 天正2年(1574)、出雲の尼子照平がこの鬼山城への攻撃を行うと、城主の玄蕃守は応戦するも力及ばず、城の兵たちを避難させ、玄蕃守は家老・福島三郎衛門や大島佐衛門とともに討死をするのです。 尼子照平の詳細までは分からないけど、この戦いで照平も命を落としました。 『参考文献を参照』 |
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