猿掛城

岡山県小田郡矢掛町・倉敷市真備町

  Top 岡山県のお城一覧
 
岡山自動車道、「岡山総社IC]を降り、国道180号線を西へ走ります。

「溝口交差点」から486号線を西へ、吉備郡を通り小田郡へと入り小田川の「福瀬橋」を渡ると、すぐ南には標高230mの山頂に猿掛城(さるかけ)があります。
  
   
備中南部で最大規模の堅城です。 「備中の兵乱」で落ちゆく城跡は、冬でも温かく迎えてくれるのです。  

山頂には六段の曲輪、その広さにはびっくりです。 そして整備されている地元の方の苦労が心にしみてきそうです。

この石垣の5mぐらい下は「巽の出丸」になっています。 かなり急斜面の木にぶら下がりながらの写真です。(下がないよ)
 
  
西から見た猿掛城の山、この左には小田川が流れています。

姫路から猿掛城を目指してやってきました。 天気は良かったけど、1月は寒いです。

上服を忘れてきたので、総社の作業服店に寄りました。 すごく親切なおじさんに「どこに行くの」と聞かれたので、「山城です」と。

そこから話は播磨の赤松氏、備前の宇喜多氏の山城を知っている限り話しました。 熱心に聴いてくれて、ありがとう。 うれしかったよ。
   
  
どこから上るのか、この手前で、田んぼで作業していたおじさんに教えていただきました。

町内の皆さんが会合を持ち、整備をしているのだそうです。 歴史や城跡の面積まで熱心に教えていただきました。

この箱の中に「猿掛城概要」の説明書を置いていただいています。 1枚頂きました。

何の資料を持たずに来た人の為に作られたかと思うと、自分が情けなく胸が痛みます。 ありがと。
  
  
登り口、すでに石積みが続いています。 この石にシイタケを栽培する木が沢山立てかけていました。

少し手前の畑の周囲も石で囲まれているけど、気になるよ。 
  
  
丸太で良く整備された道が続きます。 うれし過ぎるよ。

この左には「猿掛砲台跡」があるよ。  
  
  
「猿掛砲台跡」

慶応三年(1867)、岡山藩の要請で丹波亀山藩主の松平氏が松山藩に警戒して造ったものです。 でも1弾の発砲もなかったそうです。 
  
  
「寺丸」

登り始めて三分の一ぐらいの所です。

延徳4年(1492)、細川勝久が猿掛城を攻めた時、庄氏を支援した香西氏が奮闘したすえに切腹しました。

庄元資はその慰霊の為に、この寺丸に位牌塔を建て冥福を祈りました。

のち、山麓の見性寺にその位牌を移して祀っています。 
  
  
 半分ぐらいからの西の風景です。 見えてるのが「小田川と福瀬橋」です。

実は来る時、ここを通り過ぎて、10kmほど西の井原市近くまで行って、消防の出初式に巻き込まれ大渋滞だったよ。
  
  
「大夫丸(たゆうまる)」

まだ、半分ぐらいのところ、石積みが残っているね。

三村元親と庄為資が麓で激突した時、毛利元春の調停で講和しました。

その後、三村家親の長男・元祐が庄為資の養子となり、のち猿掛城主になっています。

その時、元々の城主・庄実近は隠居してこの「大夫丸」に移ったそうです。 
  
  
「大手門」

山頂に着いてから、六・五・四・三の丸まできました。 一つ一つの曲輪の写真は載せてないけど、ほんと広いです。 

その曲輪横には「馬場」と呼ばれる広場もあります。 まさに広場という言葉で想像してくださいね。 
  
  
 「郡境の石」

この猿掛城の中心を小田郡矢掛町と吉備郡真備町の境界が走っています。

その線上には、六の丸から本丸まで石が積まれています。 当時の建物の敷石を並べたのかな。 それにしてもすごい距離で石が並んでいますよ。
  
  
 「井戸」

三の丸にあります。 標識もあって、さすがに分かりました。

この三の丸の西側の一段下がったところの搦め手道には、「倉庫跡」があって、ここも広場です。
  
  
本丸です。 向こうには土塁が周囲を廻らせています。 この左側に石垣があるから、忘れずに見てね。

この手前の二の丸では、直径50センチ、長さ数mの大木が空中でぶら下がっていたよ。 今にも落ちてきそうな状態だった。
  
  
本丸の土塁の向こうには、ロープが張られた急な坂があります。

ロープをつかまりながら、20mほど降りるとこの堀切があり、更に反対側に登った先は出城へつながっていると思います。

ここは、カメラはリュックに入れて、ロープを持って真剣に登らないと、危ないよ。 すべったら下まで落ちてしまうよ。
  
  
あまりにも広く、また見るところも沢山、そしてきれいに整備されています。

この場所に立つ為だけにやってきました。 城跡を楽しめたことと、そして地元の皆様の努力に感謝いたします。

地図がなくても岡山の道は大丈夫、地道で帰りますね。 ゆっくりと余韻を楽しみながらね。
   

   
真備町妹と矢掛町横谷にまたがる中世以来の山城です。

猿掛城築城のはじまりは、東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城(山手村所在)へ入るのですが、防禦に不便として、元久2年(1205)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによります。

猿掛城は庄氏が366年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正3年(1575)に毛利元清が5千貫の領主として入城してました。

また、この城は天正10年(1582)の高松城水攻めの際に、毛利輝元の本陣となったことでも有名です。

関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元が長府へ帰った後、慶長9年(1604)、猿掛城に花房志摩守正成が5千石で入城したが、元和元年(1615)の一国一城で廃城となり、元久以来の名城も410年間で終局を迎えたと云われています。

「現地案内を参照」

 Home  Top 岡山県のお城一覧
ink 2 nk