高田城

岡山県真庭市勝山

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米子自動車道、「久世IC」で降ります。 出雲街道の国道181線を北西に走り、旭川と合流してまもなく城下町・勝山があります。

JR勝山駅の手前で「スポーツ文化センター」方向への道を入ると標高322mの大総山に、高田城(たかだ:別名勝山城)があります。
    
   
二の丸跡にできた野球グランドの西側にありました。

石垣は無いと思っていたのですが、グランドから山頂の本丸跡を目指し、反対から降りて「竹林の小径」を周回すると、なんと最初のグランドに石垣があったのです。

後で、案内板をよく見たら「石垣」や「堀切」が書いてありました。
 
  
石垣に感激したので、もう一枚です。

姫路から2時間、この石垣は本当にうれしかった。 帰りは地道で津山・美作・佐用・龍野を通り姫路まで3時間です。

この日は携帯電話を忘れてきました。 何でもよく忘れたり落としたりします。

でもさすがに携帯がないと不安な気持ちになりますね。
   
  
本丸から向こう側に降りると「小屋の段」があって、江戸時代に入った三浦明次の家臣・牧氏の居館があります。

江戸時代の三浦氏は、戦国時代の三浦氏とは祖が同じでも、あまり関係がないそうです。

木が数本、正直言って少し恐い時もあります。 木の裏側に回ったり、上の方を見上げたり。

そして、後ろを振り向いたり。 
  
  
 江戸時代の終わりまで日本人は、左右の手足を同じ方向に振って歩いていたのだよ。 (実際は手を振らないで肩を動かしていた)

思い出してみて、京都の舞子さんを。 歩く時に手足が同じ方向になっているよね。 武士が肩で風を切りながら歩く姿も。

「南蛮歩き」といって西洋には無かった歩き方です。 同時に出すと傾くから「かぶく」と言って、それが「歌舞伎」になったらしいよ。
  
  
この橋を渡って、出城の「太鼓山」に行きます。

江戸時代の三浦氏は、明和元年(1764)に三河国西尾城から移って来ました。 時を告げる「太鼓櫓」を山頂に建てましたが、幕府に遠慮して天守は造らなかったそうです。

橋の下が道路になっていて、すぐ近くに案内板があります。
  
  
太鼓山側に大きな堀切と堅堀があります。 一応山頂まで登ったのですが、「井戸」を見るのを忘れました。

もうすぐ秋、道にはどんぐりが沢山落ちています。

いつもの秋なら、すぐ冬が来ると思い、少しさびしくなるのですが、山城に行きだしてから冬も好きになりそうです。
   
 
「白菊塚」

芭蕉翁没後、文化11年に勝山の俳人「松毬庵里翠(しょうきゅうあんりすい)」が芭蕉の句碑を建てました。

昔の塾みたいな建物があって、習い事をしていました。

右脳と左脳があって、左は考える方で、右はイメージする方らしいです。 日本語の文章は世界でも珍しく、両方の脳を使っているのです。

「ひらがな」は左で、「漢字」は右で読んでいるそうです。 男性は左をよく使い、女性は両方をよく使い、そしてイメージで記憶した事は忘れないそうです。 
  
  
「渡辺屋敷」

城下町に残された唯一の完全な武家屋敷です。 渡辺家は家老の次に位する上級武士で、建築以来200年が経っています。

勝山の街には白壁の屋敷が沢山あるので、ゆっくりと歩いてくださいね。

近くの「神庭の滝」「玉だれの滝」なども見所ですよ。 
  
  
「勝山商店街」

「文豪谷崎潤一郎疎開の地跡」と書かれた酒屋さんを見たような気がするけど、近くの自転車屋さんに気を取られ、じっくりと見るのを忘れました。 「南蛮歩き」で「のれん」をくぐるのも風情があるよ。

昭和20年、谷崎潤一郎は関東地区が空襲で危険になると、最初津山に疎開、のち勝山へ来ます。

市川崑の映画、「細雪」は知っているかな、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子だよ。
   
   
晩年、尼となったお福が見た旭川の水は、今でも直家の岡山城まで流れています。

人は、自分の生きてきた跡を何かに流す時があるよね。 時間の流れは絶対に戻らないけど、同じ風景に戻った時に心の中で過去の想いを流しているんだね。
   

   
城山は、本丸を如意山と言い、その南麓に二の丸と出丸があり出丸を勝山と呼んだ。

両山をあわせて大総山または大津夫良山とも言い、これを総称して高田城と名づけています。

高田城の築城は、三浦貞宗によると伝えられ、八代貞連の孫・貞久が天文元年(1532)に城主となり、高田城は戦国時代に入ります。

西美作の軍事交通の要衝であった、高田(勝山)は初め、山陰の尼子氏が、次いで備前の宇喜多氏が、また西からは安芸の毛利氏が進攻して来ます。

高田城を巡っての戦国の争奮戦については、種々の話が伝わっています。

天文十三年(1544)、山陰の尼子氏が進攻して来たが、まもなく尼子氏の勢力も衰え、永禄二年(1559)、高田城を奪回し貞久の嫡子・三浦貞勝を城主としました。

高田城第十一代の三浦貞勝の正室「おふくの方」は、後に石山城主(岡山市丸の内)宇喜多直家の室となり、秀家を生むのです。

岡山城を築城した宇喜多秀家の生母は「おふくの方」でした。

「おふくの方」は、十五歳で貞勝に輿入れし、桃寿丸を生み高田城で平穏な生活を数年過ごしますが、攻防で城は落ち、貞勝は家来と落ちのびる途中に自刃するのです。

「おふくの方」と桃寿丸は密かに城を脱出し、備前津高郡下土井村(現在の加茂川町)の縁故先に辿り着きました。

そこで宇喜多直家に匿われ、宇喜多氏の居城亀山城に送り込まれます。

直家は桃寿丸を我が子同様に養育につとめていたが、「おふくの方」の悲願であった桃寿丸を立て高田城再興の夢も、桃寿丸が地震による圧死のため潰れ、八郎(後の秀家)が生まれて間もなく直家は死去しています。

「おふくの方」は、備中高松水攻めで岡山入りした秀吉に見初められ寵愛を受けます。 八郎は秀吉が名付け親となり秀吉の秀の一字と父の直家の家をもらい「秀家」と名乗りました。

それ以後、実母「おふくの方」の尽力により、秀家は養父の太閤の寵愛を受け破格の昇進をし、関ヶ原の合戦後、秀家の身を案じた「おふくの方」は京都の圓融院に入り尼となり、圓融院と名乗っています。

その後の足取りは定かではないが、一度勝山に帰郷後、備前に出て直家の菩提を弔ったと伝えられる。

群雄割拠の戦国時代、「おふくの方」の美貌は戦いに明け暮れた直家を捕らえ、時の天下人秀吉をもとりこにしました。

秀家の出世、岡山城築城の陰には「おふくの方」の力があったと言えるのです。

「現地案内を参照」

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