天神山城

岡山県和気郡和気町岩戸、田土

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山陽自動車道、「和気IC(わけ)」で降りてから国道374号線を北上し、そのまま岡山県三大川の一つである吉井川沿を走り佐伯町に入ます。

川が大きく左へ曲がるところに、東側に断崖がそびえ立っています。 この標高409mの山頂には天神山城(てんじんやま)があります。
   
  
この天神山には、延長1km以上にわたって沢山の郭があります。

ほぼ中央には深い堀があり、西は「天神山城」、東は「前期天神山城(太鼓丸城)」と呼ばれています。

落城の後、宗景は播磨に逃れ、そして九州の黒田氏を頼ったともいわれていますが、現状では明らかではないそうです。
 
  
城跡への登山口は、国道に面した「天石門別神社(あまのいわとわけ)」や、北側の「水の本」まで車で登れる馬越(まがし)ルートがあります。

山頂の城郭跡を端から端まで探索すると往復2kmもあり、あまりの壮大さに今どこで何を見ているのか、わからなくなります。

(登る前には、必ず地図と史料は必須ですよ。 山麓のふるさと会館でいただくことができます。)
  
  
 「飛騨の丸の石垣」

ここから西には「天津社跡」「本丸」「二の丸」「長屋の段」「百貫井戸」「桜の馬場」「三の丸」などあります。

木々の間から断崖を隔てて真下には吉井川の水面が映し出されます。
   
  
「亀の甲」、「前期天神山城」側の最初にあります。

敵が塁をよじ登って来た時、石落とし用として石を積んでいたところです。

ここから太鼓丸の方には、「石門」「太鼓丸」「本丸」「軍用石」があります。
  
  
「浦上与次郎の墓」

北側の田土の集落に入る道の山裾にあります。

天文18年(1549)、宗景の嫡男・与次郎宗辰が生まれます。
直家が天神山を攻撃した時、与次郎は毒を盛られて死没するのです。

山麓には重臣の岡本五郎左衛門竜晴の屋敷「岡本屋敷」や、その北の「見返り坂」登山口付近には「侍屋敷の遺構」があります。
  
  
「佐伯町ふるさと会館」

「天石門別神社」がある登山口から、100mほど北に入ったところにあります。

二階には天神山城の年表、史料や出土品が展示されています。

入口からすでに感激に見入ってしまいます。 
  

   
播磨、備前、美作の守護赤松氏の重臣・浦上村宗は、文明15年(1483)赤松氏と不和になり三石城を本拠に、戦国大名への道をめざしたのです。

大永15年、村宗は置塩城主・赤松義村を殺害、播磨西部から備前東部までを支配するようになりました。

しかし村宗は、細川高国と細川晴元との「天王寺合戦」で戦死、村宗の子・政宗と宗景は一旦播磨の室津城へ入ったのですが、この兄弟の間にも不和が起こり、宗景が本拠に構えたのが天神山城です。

天文5年(1536)、宇喜多能家の砥石城落城時、当時八歳の能家の孫・直家が浦上宗景の家臣となりました。

天文12年(1543)、置塩城主・赤松晴政が備前に攻め込んできたので、宗景はこれを退け、逆に播磨の諸城を攻め落とし、この時、直家は初陣で参加し、三百貫の知行と足軽三十人を賜って乙子城主となりました。

また、龍之口城や金川城を攻略し、元亀二年(1571)には信長より領地の所領朱印を受け、毛利をも攻めています。

この頃から、宇喜多直家は独断で城を落とすなど、備前中南部を次々に支配し、浦上氏から離反していくのです。

そして天正五年(1577)、ついに直家は天神山城を攻撃、城内には裏切り者も出て、数日後に天神山城は落ちてしまうのです。

『参考文献を参照』

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