富田茶臼山城

岡山県備前市西片上

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国道2号線「大東交差点」を南斜めに入りJR備前西片上駅の南側から少し西へ行くと富田茶臼山城(とだちゃうすやま)があります。

2003年4月、今では「茶臼山公園」、備前の片上湾と富田松山城の風景がゆっくりと楽しめる城跡です。
   
   
山頂は公園。

お弁当を食べる家族、昼寝の若者がいました。
 
  
「葛坂・お夏茶屋跡」

二号線から茶臼山城へ登る麓にあります。

「お夏清十郎」で有名なお夏の墓が右側にある題目石のところです。

許されぬ恋をした「お夏と清十郎」、ここ片上港で追手に捕まり、清十郎が処刑された後、お夏はこの峠に茶屋を開いたのです。
    
  
「片上港」

5月、富田松山城の鯉のぼりも海風に揺れながら、のんびりした一日となりそうな城跡です。 
  
  
「万代家」

2号線沿い北側にあります。 足利氏に仕えて、泉州堺の代官職に就いていました。

しかし大内義弘が謀叛し、西国から攻め上がり、この時、万代主計が大内氏に味方したとして、この地に来ました。 
  

 
この富田茶臼山城は築城者など詳しいことは不明ですが、すぐ南にある富田松山城の出城とされています。 以下には富田松山城の歴史を少し書きます。

嘉吉の乱(1441)後、赤松政則は播磨・備前の守護を取り戻し、家臣の浦上則宗を備前・三石城に、松田元隆を富山城に居城させて西への備えとしました。

文明15年(1483)、松田元成が金川城を拠点として赤松氏から離れていったので、浦上則国は松田氏を攻めるために福岡城を築き、松田・山名連合軍と戦いました。(福岡合戦)

この合戦中に浦上則国が築いたのが富田松山城です。

享禄4年(1531)、浦上村宗が「天王寺合戦」で戦死した後、嫡子・政宗は播磨の室津城へ入ったのですが、兄弟仲が悪くなり次男・宗景は天神山城を築き、三男とされる国秀はここ富田松山城を本拠にしました。

二年後、政宗が富田松山城を攻めてきた時、国秀はわずか数日で開城してしまいました。

一方天神山城の宗景は兵を率いて富田松山城を包囲するために陣を張ったのですが、この一族兄弟対決は決着がつかずに、お互い室津城と天神山城に引き上げたのです。

天正5年(1577)、宇喜多直家が浦上宗景の天神山城を落とした時、浦上氏の滅亡とともに、富田松山城は落ちるのです。

『参考文献を参照』

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