岡山県美作市友野 | |
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中国自動車道、「美作IC」から南側の国道179号線を東へ走ります。 3kmほどで吉野川の鶴亀橋を過ぎると、次の天神橋の手前には標高115m(比高25m)の友野城(ともの)があります。 |
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「友野五輪塔群」 300基以上の五輪塔、あまりに感動。 2004年9月、移りゆく季節が早いのか遅いのか、いつの世も秋には秋が訪れてほしい。 今まで何度か探したよ、でも中途半端な探し方では見つからなかった。 9月の雨あがり、とても親切な地元の方に教えていただいたのです。 |
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国道から50mぐらい南に入った所、ここが登山口と決まっている訳ではないのですが、とりあえずこの畔道から登ることにしました。 彼岸花を踏まないように山に近づく、その山裾辺りも掘だったんだね。 |
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この季節は緑色の栗、沢山木にぶら下がっているよ。 この段々になっているのが屋敷跡だったんだね。 少し上に上がると曲輪がある、二の丸だよ。 |
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ニの丸から右手に向かって進むと、大きな堀切。 それにしても大きな堀切で全体が映らないよ。 この右手を登るには、木につかまり、もがみながら反り返りそうになるよ。 「もがみながら」、意味不明だけど、そんな感じ。 |
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東西45m、南北20mの広い場所に来た。 真ん中に岩の塊、その上には小さな祠が祀られているよ。 ここは天神山城とも言うから、天神宮なのかな。 沢山の五輪塔があるはずなんだけど見つからないので、ここから下へ降りました。 そこで会った地元の方に聞いたんだ、そして一緒に連れていってくださったよ。 |
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更に山裾を歩いていると、また登り道がある。 小さな溝に木板の橋が架かっている所を上がるんだ。 そこには沢山の五輪塔が、これはほんの一部、300基以上もあるよ。 元々「浄福寺」があり、戦国時代に戦死した方々の塔を祀っていたんだよ。 この中に一つだけ、形が違うのがあるらしい。 当時の身分か何かが違う人だと伝わっている、でもどれか分からなかった。 |
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五輪塔の感動にしばらく遠くの山を見ていた。 あの山も城跡なのかな。 幾度となく訪れた美作、彼岸から秋桜色へと変わる。 これからも秋が訪れるたびに、世界の環境・政治・経済が変わっているだろう。 温暖化、石油資源の減少。 あと20年、確実に世界の生活と経済の覇権は変わっている。 でも世界中どこへ行っても五輪塔がある世には絶対にしてはいけない、戦いだけは遠い昔の秋色でいいんだよ。 |
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承暦2年(1078)、菅原道真から十二代目・菅原知頼が美作へ下向し、その曾孫・仲頼が勝田郡奈義町の大別当城主になりました。 菅原仲頼の三男・満佐は三穂太郎として名が知られています。 そして満佐の七人の子は「美作管家七流」と呼ばれ、その中にはここ友野城主・江見氏の名が見えます。 元弘3年(1333)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が伯耆国の船上山で挙兵した時、足利尊氏とともに管家一族も鎌倉幕府の京都六波羅探題を攻めるために馳せ参じました。 建武2年(1335)、尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻した時、播磨では赤松円心、備前では飽浦信胤や田井信高、備中は小坂・河村・庄・真壁・陶山・成谷・那須・市川らが尊氏方に味方し、備中福山城で天皇方の児島高徳らと戦っています。 その後、 備前守護の松田盛朝や備中の新見氏、そして作東の管家一族らも足利尊氏に味方するようになりました。 尊氏が天皇方の攻撃で九州へ敗走した時には、天皇方の新田義貞の攻撃に備えて播磨や備前で城を構え、ここ美作でも江見信盛が能仙城や菩提寺で防備を固めていたのです。 戦国時代には江見信盛の子孫・久盛が友野城主になり、その後は久次・久重と続いて、のち宮本武蔵の生誕地と云われる大原に移り、竹山城主の新免氏に属しているのです。 『参考文献を参照』 |
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