有漢常山城

岡山県高梁市有漢町有漢

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岡山自動車道、「有漢IC」で降りるとずぐ常山公園があり、そこには標高268mの有漢常山城(うかんつねやま)、そして有漢常山城から西側の有漢川を渡った北の集落には、秋庭氏居館(あきばし)があります。

鎌倉時代に備中松山城を築いた秋庭氏、2004年夏の季節を待つ有漢の街に、流れる雲が風ぐるまを動かし始めたのです。
  
   
公園にあるきれいな展望台、でも城跡は見逃していたよ。

この展望台から子供広場・吾妻屋の方に「常山城跡」があるらしい。

芝の上で寝転び、きれいなお城に気を奪われていたんだよ。
 
  
「展望台のお城」

正面もきれいなお城だね。 備中松山城を作った人だからね。

備中松山城に行った時に、秋庭氏が出てきたけど、ここから移った人だというのを知ったよ。

その秋庭氏も、後鳥羽上皇の「承久の乱」とつながっているから歴史は面白いよね。
   
   
東軍24カ国16万人、西軍20カ国9万人。

文明9年(1477)、全てが焼かれて京都の乱は終わりました。

秋庭元重は京都から有漢の郷に帰り、この風景の中で静かな風が吹く季節を待ちました。 
   
  
「石の風ぐるま」

太平洋と日本海が高速道路で結ばれ、その中央に位置するのがこの有漢町です。

南の風、北の風を受けて、新しい風が吹く街のシンボルです。

常山公園の芝生で上向けに寝ころんでみた。
流れる雲が風ぐるまを動かしている、有漢の郷にも夏向かう季節の風が吹き始めたんだよね。
  

   
鎌倉時代の最初、源頼朝が亡くなった跡は二代目・頼家が将軍を継ぐのですが、この頃から頼朝の妻である政子の父、つまり北条時政が幕府の権力を狙い始めました。

北条時政は源頼家を伊豆修禅寺に幽閉し、頼家の弟・実朝を三代将軍として自ら執権となり、幕府の権力を握ったのです。

承久元年(1219)、源実朝が甥の公暁に命を奪われる事件が起ったのを機会に、京都で後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げたのです。

これに対して、鎌倉からも北条義時の弟・時房、嫡男・泰時の大軍が西へと向かい、両者は木曽川で戦い、幕府軍が勝利を収めました。(承久三年(1221) 承久の乱)

後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇は配流、京都には監視用の六波羅探題が置かれ、西国武士の領地を没収して、そこに東国の武士たちを地頭として配置しました。

この乱で、相模国の三浦氏の一党である秋庭重信は、北条義時に属して戦功をたて、その恩賞で有漢郷の地頭に任じられ、この有漢に移り住みました。

秋庭重信は、館の前に有漢常山城、有漢盆地の入り口には台ケ鼻城を築き、治元年(1240)に臥牛山・大松山に築いた高梁城がのちの備中松山城となるのです。

『参考文献を参照』

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