矢掛茶臼山城

岡山県小田郡矢掛町東三成

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山陽自動車道、「玉島IC]で降りてから県道54号線(倉敷美袋線)を北上します。

小田川を渡り、国道486号線を西へ、矢掛町に入ってから3kmほどの北側には標高114mの山に矢掛茶臼山城(やかげちゃうすやま)があります。
  
  
春一番に備中にやってきました。 猿掛城、矢掛本陣そして茶臼山城、本当に矢掛の街は「歴史かおる文化の町」と感心するばかりです。

当時の石垣かな、ここはけっこう整備された公園になっているから違うかも。

でも猿掛城の石の色艶に似ているよ。
 
  
茶臼山城の西側のヘルシーロード側から歩いて登りました。 東側から車で登れるみたいです。

この二の丸が本丸だと思って、井戸も見れたし喜んで帰りました。 しかしここは本丸ではなかったのです。

けっこう広いと思いながら実は半分も見てなかったのですね。
   
 
二の丸の下にあったから三の丸と思う、あまり自信がないよ。
  
  
「かれずの井戸」

鎮守丸のところにあります。

それにしても大きい井戸、たぶん今までに見た中で一番大きいと思うよ。
  
  
茶臼山公園や野鳥の森、神社や相撲の土俵があったり、一度に沢山のことが楽しめそうです。

ヘルシーロードの登山道も見てね、ドキドキしながら健康になるよ。 
  
 
  
矢掛町にも春の風が吹いてるよ。

この町は猿掛城、矢掛本陣とこの茶臼山城を楽しませてくれました。

町の歴史や文化に対する取り組みはすごいと思うよね。
   

   
この小田郡の東の端には猿掛城があります。 天正二年(1574)、備中松山城の三村氏と毛利氏が戦った「備中の兵乱」で、毛利軍は伊与部山に小早川隆景、木村山城に毛利元清、馬入山城には宍戸隆家らを配置させ、三村勢の国吉城、楪城、鬼ノ身城など片っ端に落とし、ついに備中は毛利氏が制覇するのです。

この時、三村氏とともに猿掛城の庄氏も滅亡し、猿掛城には毛利元就の四男・元清が入りました。

織田信長と毛利輝元の対立が始まると、天正五年(1577)には羽柴秀吉に中国攻めを命じ、秀吉は播磨へと攻め込みました。

その頃の播磨では上月城主・赤松政範が備前の宇喜多直家を通じて毛利氏と同盟を結んでいました。 そこで秀吉は黒田官兵衛、竹中半兵衛や高山右近らと上月城に総攻撃をかけ落としています。

その後、秀吉は毛利氏によって滅ぼされた出雲の尼子勝久と山中鹿之介に上月城を守らせ、毛利氏の攻撃に備えていました。

しかし天正六年(1578)、ついに毛利元清をはじめとする毛利軍が上月城への攻撃を始めてくるのです。

この時、三木城主・別所氏が秀吉に叛旗を翻したために、尼子勝久と山中鹿之介に援軍を送れず孤立無援にさせてしまいました。 

天正十年(1582)、秀吉による備中高松城の水攻めで、毛利氏と和議をした時に高梁川から東は織田氏、西は毛利氏とし、毛利元清は猿掛城からこの茶臼山城に移りました。

天正十三年(1585)、毛利清元の嫡男・宮鶴丸が死去された時、二男の宮松丸を連れて広島県廿日市の桜尾城に移り、この茶臼山城には城代を置いています。

この宮松丸はのち秀吉に仕えて二度、朝鮮へ出兵している毛利秀元です。

そして関ヶ原の戦いで敗北した西軍、その後の茶臼山城は廃城となるのです。

『参考文献を参照』

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