安威城

兵庫県茨木市安威

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名神高速、「茨木IC」から国道171線を東へ走ります。

まもなく「西河原西交差点」から46号線を北へ、名神高速道路を越えて安威の集落に入ると、安威城(あい)の碑があります。

2006年3月、大阪のお城はまだつづく。 古代の話、ここは中臣氏がでてくるよ。
  
  
古代、この辺りには中臣藍連(あいのむらじ)、すぐ東の大田には中臣太田連(おおたのむらじ)、西の宿久庄には中臣清麻呂がいました。

東に流れる安威川、丘陵の突端部に築かれた山城だよ。

東西180m、南北270m、中央には「御殿台」と呼ばれる本丸があったんだ。
  
   
集落の中央を南北に走る道路と、西にある小学校東側道路との間が内郭だよ。

安威城の碑から南北の道を南へ、集落の南端の竹林、石積みがあったような気がしたよ。

南東の一角にはお城の井戸、今でも用水として使われているらしい。
   
   
「阿為神社」

お城の碑から北へ行くと、阿為神社。 中臣藍連の祖先・天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っています。

天照大神が岩戸に隠れた時、前で祝詞を唱えたと神話に出てくるね。

その天児屋根命を祖とする中臣氏は、645年の大化改新で有名な鎌足に続くんだよ。 
  
「鎌足塚」

お城から西、西安威2丁目、将軍塚とも呼ばれています。

大織冠神社と刻まれた石碑、鳥居をくぐり石段を上がります。

平安時代、鎌足のお墓は摂津安威にあり、のち大和多武峰(とうのみね)に改葬されました。

その安威のお墓がこの古墳と云われている。(阿為神社の北にある阿部山古墳の説もあるよ)

多武峰は奈良県桜井市かな、いよいよ飛鳥の地に近づいてきたね。 
   

 
摂津守護・細川氏から安威庄を安堵された安威右近太夫が築きました。

大永六年(1526)、細川高国の従兄弟・細川尹賢の夫人と、高国の家臣・香西元盛の夫人が口論となり、尹賢は元盛を殺害しました。

これを機に高国と晴元との戦いが始まり、この辺りの土豪達も戦いに巻き込まれていくのです。

高国方の薬師寺九郎左衛門・与次兄弟の守る山崎城が、晴元方の柳本賢治(香西元盛の兄弟)の手に落ち、間もなく高国方に付いていた安威城は、芥川城・茨木城・福井城・三宅城と共に落ちています。

のち、安威城は晴元方に属するのですが、晴元の家臣・三好長慶が勢力を持つと、その配下となりました。

天文十七年(1558)、安威弥四郎は、長慶と晴元家臣・三好宗三(政長)との合戦の時に、長慶方部将の一人として加勢しています。

その子・五左衛門尉了佐は秀吉に仕え、天正十四年(1589)、茨木城に移ると安威城は廃城となるのです。

『参考文献を参照』

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