大阪府高槻市原 | |
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名神高速道路、「茨城IC」を降りて国道171号線を東へ走り、JR摂津富田駅北側の「大畑町交差点」を北へ曲がります。 名神高速道路を越えて、2kmほどで「摂津峡公園」、その東側の標高182m(比高70m)の三好山に芥川山城(あくたがわさん)があります。 2005年6月の最後、大阪に来たのは何年ぶりかな。 一つ一つに来るのは時間がかかるけど、複雑な歴史を解く一つのお城、今年の夏もセミが鳴いてるかな。 |
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大阪のお城は3つ目。 南の国道171号線が直角に曲がる辺りに、「応仁の乱」で落城した芥川氏が拠る「芥川城」があります。 その後、能勢氏が築いたのが山城の方、芥川山城です。 |
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摂津峡を目指して、東の県道79号線を北へ、京都・長岡京まで行きそう。 引き返して一本西の県道6号線を北へ、知らない間に通り過ぎている。 引き返して「服部」という交差点から西へ、道沿いのバス停にあるよ。 大阪は迷うもの、最初から決めているから気にしないよ。 |
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探索は時間との戦い、と人は言う。 三好山を東から北へ、キャンプ場を目指して走るよ。 「名勝 摂津峡」の石標で道が分かれる、そこで駐車。 つまり搦め手から登る、おじさんは「危なくて行けないけど、行けるよ」と言う。 |
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登山口からいきなり道が崩れ、幅50cm。 下は子供達が川遊びの声。 ジンジン道を20mほど、丸木の小さな橋を渡る。 最初に10個ほどの石積み発見、びっくりする間もなく屋敷跡の石積みはお城ワールドへと広がる。 |
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後で地図を見ると、東西に二つ山がある。 ここは二つの谷間の石垣、東側の山へと登る。 |
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10分ぐらいかな、広い削平地だよ。 反対側の見晴らし、普通の道や住宅街が山頂まで迫っている。 ほんと大阪のお城、一つ一つに近づくことは大変だよ。 |
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元の石垣の所まで降りてきた。 池の前に井戸らしき囲い、ふと後ろには「三好山へ 25分」。 右側が大手道、左が搦め手。 さっき登ったのは何かな、きっと南の大手道から来るとこの道標を見ていたんだね。 |
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西側の山へ登る、「城山城」の石碑、横は出丸の高台。 横の土塁はずーと下まで続いている、下の方にも石垣があったと思うよ。 まだ10分しか歩いてないから、本丸は先だね。 |
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道から竹林へ入る、大きな井戸、関西の人は同じ言葉を二度言うと聞く。 そんなことはないないと、つぶやく自分「いど、いど、すごい、すごい」。 そう言えば、名古屋で「このいらない鉛筆、いりますか?」と尋ねると「いらない鉛筆は、いらない」と言う。 きっと関西人は「いる、いる」と言いながら、井戸でも炭を焼いてしまう。 |
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上が本丸、周囲の郭だよ。 最後の登り道、「子供の遊び場」という案内もある、大阪はすごい。 でも大阪の人は親切、道を尋ねた人は5人。 「よく分からんけど」と言いながら、聞かれた気持ちが晴れるまで教えてくれるよ。 最後には「分からんと思うけど、分かった?」と聞かれる。 |
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本丸入り口には小さな社、やっと着きました。 東西18m、南北68m。 南には田の丸、さらに南郭へと続き、西には西郭がある。 見るもの聞くもの、全てが大きく素晴らしい。大阪も本格的な梅雨に入る季節。 大阪のお城、まもなくセミの声で充満する夏、それとも都市化の音が暑く聞こえる夏なのかな。 |
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室町幕府の管領・細川高国の重臣能勢頼則が西国勢と北摂武士団への備えとして築きました。 大永六年(1526)、高国の重臣・香西元盛と、高国の従兄弟・尹賢との争いが、高国と晴元との合戦にまで発展しました。 この香西元盛は丹波八上城主・波多野稙通や柳本賢治と兄弟です。 敵対する晴元側に付いた柳本賢治は、高国方の芥川山城を攻め、能勢氏は姿を消すことになるのです。 |
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四国の阿波讃岐では細川頼之の兄弟・詮春が勢力を伸ばし、三代後・成之の時に「応仁の乱」が起こると、細川勝元を援護するために京都へ上り、その際に家臣・三好之長も従いました。 それを機会に、三好氏は之長・長秀・元長・長慶・義継の五代にわたって、京都や摂津で勢力を拡大していくのです。 天文元年(1532)、高国は堺を平定する為に天王寺・今宮・木津・難波・浦江・野田・福島に陣を構えると、これに対抗して晴元方の三好元長は住吉・我孫子・遠里小野に布陣、この合戦で高国は尼崎に敗走し、広徳寺で自刃しています。 その後、晴元と元長との仲が悪くなり、ついに晴元に命を奪われ、当時十歳の長慶が三好家家督を継いで、晴元の執事として仕えました。 天文二年(1533)、芥川山城には細川晴元が入り、二年後には京都での管領職についていました。 天文十二年(1543)、長慶は高国の養子であった氏綱を奉じて挙兵し、江口合戦にて晴元家臣・三好宗三(政長)を破り、摂津を掌握して京都から晴元を追放しました。 永禄三年(1560)に、長慶は河内飯盛城(四条畷・大東市)に移るまでの間、この芥川山城を本拠に近畿近国八か国を支配したのです。 長慶の後、子・義興が城主になるのですが、永禄六年(1563)に世を去っています。 永禄十一年(1568)、織田信長の摂津進攻により三好一族は放逐され、和田惟政が城主となり、翌年高槻城へ移ると芥川山城は廃止されるのです。 『参考文献を参照』 |
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