難波宮

大阪府大阪市中央区法円坂

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阪神高速で大阪城を目指して走ります。

大阪城の南には難波宮(なにわ)がありました。
   
   
古代の書物、難波宮の名前はよく登場しています。 でも、その場所は分からなかった。

昭和20年、工事現場から出土した瓦から、ここに難波宮があることが分かったんだよ。 
  
   
「大極殿」

大阪城のすぐ南、難波宮史跡公園だよ、都会の空間で沢山の人が見ている。

奈良県明日香村の「飛鳥板蓋宮」、奈良県平群町の「長屋王の邸宅」。

もう春だよ、春。 書いているだけで、わくわくドキドキの季節。

奈良県のお城もがんばって行くよ、きっと桜も満開だよね。
    

    
難波宮は、「前期難波宮」「後期難波宮」の二つの時代があります。

大和朝廷の時代、物部氏を倒した蘇我氏は稲目・馬子・蝦夷・入鹿と続き、皇族をもしのぐ勢力を持ちました。

飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、中臣鎌足と中大兄皇子は入鹿の命を奪い、蝦夷を自害させました。

大化の改新(645)の後、軽皇子(かるのみこ)が三十六代・孝徳天皇に即位し、難波に遷都したのが、難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)、つまり前期の難波宮です。

奈良時代、当時の首都は平城京で第四十五代・聖武天皇が、この難波宮を「副都」として営まれたのが後期難波宮です。

聖武天皇は文武天皇と藤原不比等の娘・宮子との間に生まれました。

養老四年(720年)、藤原不比等が没すると、四人の子は若かったために、不比等の娘を妻としていた長屋王が政権を握ります。

しかし、長屋王と藤原四兄弟とは対立するようになり、そのうちの一人・藤原宇合(ふじわらのうまかい)が長屋王の邸宅を包囲、長屋王は自刃するのです。

『参考文献を参照』

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