大阪府大阪市福島区玉川 | |
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阪神高速で淀川を渡り「海老江IC」を降りて東へ走ります。 JR大阪環状線「野田駅」、または地下鉄千日前線「玉川駅」の東側には野田城(のだ)の跡があります。 2006年2月、雨ふるごとに春は来る。 大阪に着いた時、リュックを忘れたのを気がついた。 地図もデジカメもないけど、ここは大阪、なんとかなるんだよ。 |
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なんとか野田駅、地下鉄玉川駅が分からないはず、地下にあるんだよ。 大きな銀行の前に碑があるはず、探し回った、建物がない前に碑があるんだよ。 天正4年(1576)、信長の石山本願寺攻めで、八千人の将兵が籠城したらしい。 コンビニで買ったカメラで写す、なかなかいい感じだね。 |
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「二十一人討死之碑」 東500mぐらいかな、中学校の近くだよ。 天文元年(1532)、本願寺の証如が攻撃を受け、ここに逃れた時、21人の信徒は証如を紀州へ逃して、討死するのです。 この場所が分からず2人の方に尋ねたよ。 「見たことあるある、いつも見ている」 ひっしで3分ぐらい考えてくれた。 「そうそう、駅前の銀行の前にあるよ」、でも10歩ほど後ろにあった、ここは大阪、人がやさしいです。 |
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細川政元が3人の養子(澄之・高国・澄元)を迎え、澄之が跡を継ぐと澄元が澄之を倒し、高国が澄元を近江に追いました。 澄元が亡くなると、子・晴元は家臣の三好元長とともに京へ進攻し、堺に堺公方をたて拠点としました。 享録四年(1531)、「天王寺の戦い」で晴元に敗れた高国は尼崎で自刃、のち堺公方内でも晴元と元長が対立するようになりました。 晴元と元長は堺・天王寺・木津・今宮で交戦、ついに元長は敗れ堺で自害するのです。 この時、三好方の浦上掃部の軍が野田・福島に陣を構えています。 浦上掃部、播磨赤松氏の家臣だと思うけど、誰かな。 三好元長の子・長慶は、父の敵であった晴元に従うのですが、天文十八年(1548)には晴元と敵対していた氏綱に付いて、晴元と将軍・足利義輝を追放しました。 しかし長慶は河内守護・畠山高政や細川晴元方の六角義賢らに攻められ、また弟・義賢を失い、嫡男・義興や弟の十河一存・安宅冬康に先立たれました。 元亀元年(1570)、長慶の勢力が衰えると、家老・松永久秀や三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らが阿波から泉州に上陸し、野田城に入りました。 元亀二年(1571)、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて京に入り、野田城を攻め囲むのですが、近江の浅井長政、越前の朝倉義景の連合軍が京に乱入したため、信長は野田城の囲いを解いて浅井・朝倉交戦にあたりました。 『参考文献を参照』 |
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