堺 城

大阪府堺市堺区宿院町

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湾岸線で大阪へ、堺の「大浜IC」から堺の街へ、その街が堺城(さかい)と云われています。

2006年2月も大阪のお城。 街全体がお城かな、ゆっくり立ち止まり、昔の碑を探そうかな。
   
   
「放鳥銃定限記」

街の北から南へ歩く、ここは南海本線「七道駅」だよ。

天文十二年(1543)、種子島に鉄砲が伝わりました。

堺の商人・橘屋又三郎は、いちはやく種子島から鉄砲の製造技術と射撃術を持ち帰ります。

大正三年、運河の工事中、この碑が発見されたのです。
 
  
「鉄砲鍛冶射撃場跡」

津田監物算長(かずなが)らも、紀州根来に伝わる鉄砲技術を堺の芝辻清右衛門に教えます。

放鳥銃定限記のすぐ横、今では工場の敷地になっている、昔は砂浜だったんだ。

造られた鉄砲をここで試射をしていたんだね。
    
   
「旧鉄砲鍛冶屋敷」

少し南の街中へと入っていくよ。 江戸時代後期の古い街並み、ここ井上邸は堺にただ一つ現存する当時の鉄砲鍛冶屋敷だよ。

もう少し南東には、「榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡の碑」もあるからね。 
   
   
「土佐十一烈士墓」

さらに南に歩いて、ここは宝珠院。フランス軍艦が堺沖に入り、数十名が上陸しました。

警備をしていた土佐の藩兵は、言葉が分からない上に、隊旗を奪われたので7人を殺傷するのです。

諸外国の抗議の末、土佐藩兵20人が切腹することになりました。

11人まで切腹した時、たまりかねてフランス側は残りの者を助命し、引き上げたのです。 
   
   
 「小西行長屋敷跡」

西へ歩くと路面電車が走る大小路通に出るよ。 薬を扱う商人・小西隆佐の子で、岡山備前の宇喜多氏に仕え、のち秀吉に仕えました。

九州征伐で功をあげ、熊本県の宇土城主になるんだね。

文禄の役では朝鮮半島に進行し、関ケ原の役では石田三成の西軍として参戦。最後は六条河原で斬首されるんだよ。
   
   
「堺奉行所跡」

泉陽高校の西側だね。 ここに初めて奉行を置いたのは信長、のち秀吉・家康と続き、江戸時代には幕府直轄地となりました。

昭和19年まで、堺市役所の跡でもあったんだね。 堺にはお寺、神社が沢山あるよ、ゆっくりと見てね。 
   
   
 「ザビエル公園」

大小路通りを西へ渡ると公園。 天文十八年(1549)、イエズス会(耶蘇会)の宣教師・フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着しました。

大内義隆や大友宗麟の保護を受け、山口から京都に向かう途中、この地にあった日比屋了慶の屋敷に滞在します。

中にはりっぱな「聖スランシスコ ザビエル芳躅碑」があるよ。
   
   
「与謝野晶子生家の碑」

大通りを南へ歩くよ。 明治11年(1878)、堺市のお菓子商・駿河屋の娘として生まれました。

堺女学校(現在の泉陽高校)に通い、のち与謝野鉄幹が創設した新誌社の「明星」に短歌を発表します。

そして歌集「みだれ髪」を刊行して、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立していくんだよね。 
   
   
「千利休屋敷跡」

堺の豪商・魚屋の長男として生まれた与四郎は、茶名を千宗易といい、信長や秀吉の茶頭として仕えました。

天正15年(1587)、秀吉の北野大茶会では、秀吉についで二番席をもうけ天下一の茶人となり、「わび・さび」の境地をきりひらきます。

のち秀吉の怒りをかい京都から追放、堺に謹慎していましたが、京都に戻され、切腹を命じられるのです。 
   
  
「南蛮橋」

堺駅の前、遠くヨーロッパから堺に訪れた人だね、立ち止まり出来事を見つめているのかな。

町中には質屋のCMを描いた路面電車、随分と変わっていることだよね。

橋を渡る沢山の人々、同じ足音で渡ってしまおうかな。

残された時間に現れる出来事、立ち止まっては見れないからね。
   

   
南北朝時代、兵庫は北朝、堺は南朝の軍港として発展します。

室町時代には、山名氏清が築城し、大内氏、細川氏、三好氏らが支配しました。

応仁の乱の時、兵庫は西軍が支配した為、東軍にあった将軍・足利義政は新たに堺を基地としたのです。

南蛮や中国との貿易、鉄砲の製造により利を得た堺商人は、自衛のために町に堀をめぐらせ、武士を雇いました。

秀吉が大坂城を築くと、堺の南北の堀は埋められ、商人の多くは大坂に移されていくのです。

『参考文献を参照』

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