滋賀県近江八幡市宮内町 | |
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JR東海道本線、「近江八幡駅」の北には城下町、その背後標高283mの山頂に八幡城(はちまん)があります。 2006年6月、ドイツは熱いが、日本列島梅雨の中。 琵琶湖畔探索シリーズになりそうだよ。 |
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本能寺の変、安土城は信長の夢とともに姿を消した。 のち豊臣秀次が鶴翼山に築いたのが八幡城、そして安土から八幡山下に城下町を移したんだ。 ここは北海道から九州まで活躍した近江商人の故郷、今でも大切にされているんだよ。 |
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近江八幡駅から自転車も乗れるバス、10分ぐらいで小幡町資料館前で降りる。 東へ歩くと旧八幡小学校舎、北に見えるのがお城だよ。 蚊帳・畳表を扱っていた西川庄六邸や、煙草・麻布を商っていた森五郎兵衛邸がある。 なんと今でも東京にある会社、ホームページで見れるからすごいよね。 |
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堀の傍には沢山の蔵、全国から送られてきた物産を貯蔵していたんだ。 人が堀ふちを歩いている、舟でも観光ができるのかな。 白雲橋を渡ると神社があるよ。 |
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「日牟礼八幡宮(ひむれはちまんぐう)」 氏神の祭礼に「左義長祭(さぎちょう)」や「八幡祭り」がある。 正月、信長は自ら異粧華美な姿で踊り出した。 三角錐の松明に竹を付け上を飾ると、女装した若衆たちが巡行する。 次の日、相手の左義長を倒そうと力を出し切る、最後は全て燃やし、火の粉を浴びると琵琶湖に春を告げるんだ。 |
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神社から登れるらしいが北側の道を上る、お墓の所を過ぎると山道。 汗がでます、やっと神社からの道と合流した。 もっと素直に上らなあかんと考える、横をロープウェイの音が登ります。 |
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山頂だよ、沢山の人がすがすがしく出てくる。 いきなり石垣が現れると、お願い地蔵尊。 お願いこと、沢山ある。 今回はWC勝って、と書いてる間に、涙が出そうな目をこすり出勤する。 |
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「村雲御所 瑞龍寺門」 ここがお城の本丸あたりだね。 秀次が世を去ると、生母・瑞龍寺殿日秀尼公は出家し、秀次の菩提を弔うため京都嵯峨野に瑞龍寺を建てました。 昭和37年に京都の村雲からこの地に移されています。 |
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山頂の周囲を裏へ、西の丸や北の丸がある。 右の高い山が観音寺城、左の手前が安土城だね。 安土は低いけど、けっこう石段はきつい。 だと観音寺城は一日コースかな。 同じサムライなら、フォワード信長、そう11人を考えたら面白いよね。 |
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琵琶湖周遊シリーズは梅雨どき。 人間の脳は1つしか悩めない、つまり悩みがあっても次の悩みで、前の悩みは奥深くに隠れてしまうらしい。 そして多くの体験をすることで、人生幸せになるらしいよ。 |
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八幡城は、天正13年(1585)、秀吉の甥にあたる秀次が近江43万石を与えられて、琵琶湖に臨む標高286mの八幡山に築城しました。 秀次は、若干18歳の青年大名でしたが、築城とともに、城下町の建設に揉捏を注ぎ、安土城下から多くの住民を移住させたと云われています。 山麓には琵琶湖から水を引いた八幡掘をめぐらせたが、これは単に城の掘というだけではなく、運河の役目も果たし、商業の発展を願って築かれたものです。 天正18年(1590)、小田原征伐の軍功により、秀次は尾張・伊勢を与えられ、百万石の太守として尾張清州城に移り、代わって京極高次が2万8千石で八幡城主となりました。 文禄4年(1595)京極高次が大津城に移ると、八幡城は廃城となります。 皮肉にもこの年、秀次は逆麟に触れ、高野山で自刃したのです。 城は廃されたものの、秀次が築いた基盤模様の城下町は存続し、近江商人の町として江戸時代を通じて繁栄しました。 近江八幡市には現在もなお、その面影が色濃く残っています。 『現地案内を参照』 |
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